[p.0170][p.0171][p.0172]
今昔物語
十九
達智門棄子狗密来令飲乳語第四十四
今昔、嵯峨の辺などに行ける人にや有けむ、朝に達智門お過けるに、此く門の下に生れて十余日許に成たる男子の糸清気なるお棄て置たり、見るに無下の下衆などには非ぬなめりと見え、筵の上に臥たるお見れば、未だ生て泣ければ、糸惜しと思けれども、急ぐ事有て此く見置て過にけり、明る朝に返けるに、其の子未だ生きて同じ様にて有り、此れお見るに奇異く思ふ、昨日狗に被食にけると思ふに、今夜ひも若干の狗に不被食ざりけると思て守り立れば、昨日よりはて不泣で筵の上に臥たり、此お見て家に返にける、猶此事お思ふに糸難有き事也、未だ生たらむやと思ひ、次朝に行て見れば猶生きて同様にて有り、其時に男極て不心得ず、此は様有る事ならむと思て返ぬ、猶此の事お不審く思ければ、夜に入て窃に達智門に行て、築垣の崩に隠れて見るに、の程狗多く有れども、児の臥たる当にも不寄ず、然ればこそ此は様有る事也けりと奇異く見る程に、夜打深て何方より来るとも無くて、器量く大きなる白き狗出来ぬ、他の狗共皆此れお見て逃去ぬ、此の狗此の児の臥たる所へ隻寄に寄るに、早う此の狗の今夜此の児おば食てむと為る也けりと見るに、狗寄て児の傍に副ひ臥ぬ、吉く見れば狗、児に乳お吸する也けり、児人の乳お飲む様に糸吉く飲む、男此れお見て、早う此児は此の夜来狗の乳お飲ければ、生て有ける也と心得て、密に其の辺お去て家に返ぬ、次の夜亦今夜もや夜前の様に為ると思て亦行て見るに、前夜の如く狗来て乳お飲せけり、亦次の夜も猶不審かりければ行て見るに、其の夜は児も不見え、亦狗も不来ざりければ、夜前人気色などお見て外へ将行にけるにやと思ひ疑た返にけり、其の後其の有さまお不知て止にけり、此れ実に奇異の事也かし、此れお思ふに、此の狗糸隻者には非じ、諸の狗此れお見て逃去けむは可然き鬼神などにや有けむ、然れば定めて其の児おば平がに養ひ立てけむ、亦仏〓の変化して児お利益せむが為に来り給ひたりけるにや、狗は然か慈悲可有きにも非ず、然れども亦前生の契などの有けるにや、様々に此の事お思ふに難心得し、此の事は彼の見ける男の語けるお聞き継て此く語り伝へたるとや、今昔物語二十六東小女与狗咋合互死語第二十今昔国国の郡に住ける人有けり、其家に年十二三歳許有女の童お仕ひけり、亦其隣に住ける人の許に白き狗お飼けるが、何なることにか有けん、此女の童だに見ゆれば、此狗咋懸りて敵にしけり、然れば亦女の童も此狗だに見ゆれば打んとのみしければ、此お見人も極しく怪び思ける程に、女の童身に病お受てけり、世の中心地にて有けるにや、日来お経るまヽに病重かりければ、主此女の童お外に出さんと為に、女の童の雲く、己お人離たる所に被出なば、必ず此狗の為に被咋殺なんとする、病無くして、人の見時そら、己だに見ゆれば隻咋懸る、何況や人も無き所に己重病お受て臥たらば、必ず被咋殺なん、然れば此狗の知まじからん所に出し給へと雲ければ、主現に然る事也と思て、遠き所に物など皆拈て密に出しつ、毎日に一二度は必ず人お遣て見せんと雲誘へて出しつ、而るに其亦の日は此狗有り、然れば此狗知らぬなめりと心安く思て有に、次の日此狗失ぬ、此お怪び思て此女童出したる所お見せに人お遣たりければ、人行て見に狗女の童の所に行て、女の童に咋付にけり、然れば女の童狗と互に歯お咋違なむ死て有ける、使返て此由お雲ければ、女の童の主も、狗の主も、共に女の所に行て、此お見て驚き怪び哀がりけり、此お思ふに此世のみの敵には非けるにかとぞ、人皆怪びけるとなむ語り伝へたるとや、