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今昔物語
三十一
北山狗人為妻語第十五
今昔、京に有ける若き男の、遊が為に北山の辺に行たりけるが日は隻暮に暮にけるに、何くとも不思えず野山の中に迷て道も不思えざりければ、可返き様も無かりけるに、今夜可宿き所も無くて思ひ繆て有ける程に、谷の迫に小き菴の仏に見えければ、男此に人の住にこそ有けれと喜て、其へ掻行て見ければ、小き柴の菴有り、此く来れる気色お聞て、菴の内より若き女の年廿余許にて糸浄気なる出来たり、男此お見て弥よ喜と思けるに、女男お打見て、奇異気に思て、此は何なる人の御たるぞと雲へば、男山に遊び行き侍つるに、道お踏違へて否返り不侍ぬ程に、日の暮にたれば、可行宿き所も無かりつるに、此お見付て喜び作ら急ぎ参たるになむと雲へば、女此にはの人の不来ず、此の菴の主は隻今来なむとす、其れに其の菴に御せむずるおば、定めて己れが知たる人とこそ疑はむずらめ、其れおば、何かヾし給はむと為ると雲へば、男隻何かにも吉からむ様にこそは、但し可返き様の無ければ、今夜許は此てこそ侍らめと雲へば、女然らば此て御せ、我が兄の年来相ひ不見ざりつるお恋つる程に、思ひも不懸ず、山に遊びに行きたりける道お踏違て、此に来れる也と雲はむずる也、其の由お心得て御せ、然て京に出たまひたらむに、努々此る所に然る者なむ有つるとな不宣そと雲へば、男喜て糸喜く侍り、然心得てこそは侍らめ、亦此く宣ふ事なれば、何でか人には申さむと雲へば、女男お呼入れて、一間なる所に筵お敷て取せたれば、男其れに居たるに、女寄来て忍て雲く、実には己は京に其々に侍し人の娘也、其れが思ひ不懸ずして奇異き物に被取れて、其れに被領て年来此て侍る也、今此の具したる物は隻今来なむとす、見給てむ、但し乏しき事は不侍ぬ也と雲てさめ〴〵と泣けば、男此お聞て何なる物ならむ、鬼にや有らむなど怖しく思ひ居たる程に、夜に入て外に極く怖し気にむめく物の音有り、男此お聞くに、肝身まりて怖しと思ひ居たる程に女出来て戸お開て入来る物お男見ば、器量く大きなる白き狗也けり、男早う狗也けり、此の女は此の狗の妻也けりと思ふ程に、狗入来て男お打見てむめきて立れば、女出来て年来恋しと思つる兄の、山に迷たりける程に、思ひ不懸ず此に坐したれば、奇異く喜き事と雲て泣けば、其の時に狗此お聞知り顔にて入て竈の前に臥せり、〈○此間恐有脱字〉苧と雲ふ物お績て狗の傍に居たり、食物糸浄気にして食すれば、男吉く食て寝ぬ、狗も内に入て女と臥すなり、然て夜明ぬれば、女男の許に食物持来て、男に密に雲く、尚々穴賢此に此る所有と人に語り不給な、亦時々は御せ、此く兄と申したれば此れも然知て侍る也、自然ら要事有らむ事などは協へ申さむと雲へば、男敢へて人に申し不可侍ず、今亦参り来むなど勤に雲て、物食畢つれば、京へ返ぬ、返けるまヽに男昨日然々の所に行たりしに、此る事こそ有しかと、会ふ人毎に語ければ、此お聞く人興じて亦人に語りける程に、普く人皆聞てけり、其の中に年若く勇たる冠者原の落所も不知ぬ集て、去来北山に〈○此間恐有脱字〉妻にして菴に居るなる、行て其の狗射殺して妻おば取て来むと雲て、各出立て此の行たる男お前に立てヽ行にけり、一二百人有ける者共、手毎に弓箭兵仗お持て行けるに、男の教へけるに随て、既に其の所に行著て見れば、実に谷迫に小き菴有り、彼ぞ彼ぞと各音お高くしつヽ雲けるお、狗聞て驚き出て打見て、此の来たりし男の顔お見るまヽに、菴に返入て、暫許有て狗女お前に突立て菴より出て山の奥様に行きけるお、立衛〈○衛恐誤字〉むて多の人射けれども更に不当ずして、狗も女も行ければ、追けれども鳥の飛ぶが如にして山に入にけり、然れば此の者共も、此は隻者にも非ぬもの也けりと雲て皆返けり、此の前に行たりける男は、返けるまヽに心地悪と雲て臥にけるが、二三日有て死にけり、然れば物思えける者の雲けるは、彼の狗は神などにて有けるなめりとぞ雲ける、糸益無き事雲たる男也かし、然ば信無からむ者は、心から命お亡ぼす也けり、其の後其の狗の有所知たる人無し、近江の国に有けりとぞ人雲伝へたる、神などにて有けるにやとなむ語り伝へたるとや、