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新著聞集
四/勇烈
犬虎ともに噬
秀吉公、大坂の城に虎おかわせたまふ、其餌に、近国の村里より犬おめされしに、津の国丹生の山田より白黒斑の犬、つら長く眼大に脚の太り逞しきおぞ曳来りける、実も尋常の形には異なりたり、件の犬虎の籠に入と斉く隅おかたどり、毛おさかしまにたてゝ虎お睨む、虎日来は犬おみて尾おふり踊上てよろこびいさみけるが、この犬おみて日月のごとくかゞやく眼に尾おたて、さうなく噬かゝらんともせず、嗔りおのゝく気色おそろしなどいふばかりなし、すはや珍しき事のあるは、あれ見よとて走りあつまり、息おつめて見る処に、虎はさすがに猛き物にて飛かゝる処お、犬は飛ちがへて虎の咽に咀つきしお、左右の爪にてずだ〳〵に引さきしかど、犬はなお咀つきし処おはなたずして共に死けり、此事御所にきこしめされて、其犬の出所おたづねさせたまふに、丹生山田に夫婦の猟者あり、朝毎に能物くわせてはやく帰れよといへば、尾おふりて疾山に行く、主は犬の帰るべき時おはかりて、鉄炮お提げゆくに、近きあたりまで猪鹿お逐まはして、主にわたして打せける、しかるお庄屋よりしきりに所望せしかど、この犬はわれ〳〵おやしなひければ、いかに申さるゝとてつかはす事なりがたきとてやらざりしお、ふかくねたみけるにや、此たびの犬駈に、此犬の代りお出さんとしきりに願ひしかど、此儀なりがたしとて、かの犬おわたしけるほどに、夫婦犬にむかひ涙お流し、女いかなる宿縁によりてか、今までの夫婦おやしなひつらん、今度庄屋が所為にて、非理に虎の餌になす事口惜くおもへども力におよばず、我々お恨みそ、敵お取て死すべしとかき口説しかば、能言おや聞しりつらん、しほ〳〵として出行しと、一々上聞に達しければ、御所にも哀れがらせたまひ、庄屋が心根ふとゞきなりとて、刑罰に仰付られ、犬の跡弔へとて、庄屋が財宝のこりなく夫婦の者に賜ひけるとなり、