今昔物語

二十九

陸奥国狗山狗咋殺大蛇語第卅二
今昔、陸奥の国の郡に住ける賤き者有けり、家に数の狗お飼置て、常に其の狗共お具して深き山に入て、猪鹿お狗共お勧めて咋殺せて取る事おなむ昼夜朝暮の業としける、然れば狗共も役と猪鹿お咋習ひて、主山へ入れば各喜て後前きに立てぞ行ける、此く為る事おば世の人狗山と雲なるべし、而る間此の男例のことなれば、狗其お具して山に入にけり、前々も食物なども具して、二三日も山に有る事也ければ、山に留りて有ける夜、大きなる木の空の有ける内に居て、傍に賤の弓胡錄太刀など置て、前には火お焼きて有けるに、狗共は廻に皆臥たりけり、其れに数の狗の中に殊勝れて賢かりける狗お、年来飼付て有けるが、夜打深更る程に異狗共は皆臥たるに、此の狗一つ俄に起走て、此の主の木の空に寄臥して有る方に向て、鍔たヾしく吠ければ、主は此は何お吠るにか有らむと怪く思て、喬平お見れども可吠き物も無し、狗尚吠ること不止ずして、後には主に向て踊懸りつゝ吠ければ、主驚て此の狗の可吠き物も不見えぬに、我れに向て此く踊懸りて吠ゆるは、獣は主不知ぬ者なれば、我れお定めて此る人も無き山中にて咋てむと思ふなめり、此奴切殺してばやと思て、太刀抜て恐しけれども、狗敢て不止らずして、踊懸りつゝ吠ければ、主此る狭き空にて、此の奴咋付きては悪かりなむと思て、木の空より外に踊出る時に、此の狗我が居たりつる空の上の方に踊上り物に咋付ぬ、其の時に主我れお咋はむとて吠けるには非ざりけりと思て、此奴は何に咋付たるにか有らむと見る程に、空の上より器量(いかめし)き物落つ、狗此れお不免さずして咋付たるお見れば、大きさ六七寸許有る蛇の長さ二丈余許なる也けり、蛇頭お狗に痛く被咋て否不堪ずして落ぬる也けり、主此れお見るに極て怖しき物から、狗の心哀れに思えて、太刀お以て蛇おば切殺してけり、其の後ぞ狗は離て去にける、早う木末遥に高き大きなる木の空の中に、大きなる蛇の住けるお不知ずして、寄臥たりけるお呑むと思て蛇の下けるが、頭お見て此の狗は踊懸りつゝ吠ける也けり、主其れお不知ずして上おば不見上ざりければ、隻我れお咋むすﾞるなめりと思て、太刀お抜て狗お殺さむとしける也けり、殺たらましかば、何計悔しからましと思て、不被寝ざりける程に、夜明て蛇の大きさ長さお見けるに、半ば死ぬる心地なむしける、寝入たらむ程に、此の蛇の下お巻付なむには何態おかせまし、此狗は極かりける我が為めの此の不世ぬ財にこそ有けれと思て、狗お具して家に返にけり、此れお思ふに、実に狗お殺たらましかば、狗も死て主も其の後蛇に被呑まし、然れば然様ならむことおば、吉々く思ひ静めて、何ならむことおも可為き也、此る希有のことなむ有けるとなむ語り伝へたるとや、