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甲陽軍鑑
二/品第六
信玄公御時代諸大将之事
一武州岩つきの住人太田源五郎、後に太田美濃と雲、此者幼少より、犬ずきおする、ある年武州松山の城お取もつ、己が居城は岩つき也、然れば松山にて飼たてたる犬お、五十匹岩付におき、岩付にて飼たてたる犬お、五十匹松山におく、各の沙汰に太田美濃はうつけたる者也、稚者のごとく、犬にすかるゝと申あへり、或時岩付の城に、美濃守在之刻、松山にて一揆以外におこり、北条氏康公御出馬たるべしと有しに、岩付へ使者お立てんには、路次ふさがりて、五騎三騎にては協はじ、十騎とやらば、松山に人数すくなし、況んや飛脚は協ふまじきに、内々隠密にて、前の日美濃守留主居の者におしへたればこそ、文おかき竹の筒お手一束に切て、此状お入、口おつゝみ犬の頸にゆひ付て、十匹はなしければ、片時の間に岩つきへ、其文お犬共持来る、さる間美濃守やがて松山へ後詰おする、一揆其見之、速に岩付へ聞へ、うしろづめおしたるは、希代不思儀の名人かなと不審おなし、爾来松山に一揆発事なし、是は太田三楽と申す者也、