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閑窻瑣談

猫の忠義
遠江国蓁原郡御前崎といふ所に、高野山の出張にて、西林院といふ一寺あり、此寺に猫の墓鼠の墓といふ石碑二つ有り、そも〳〵此所は伊豆の国石室崎、志摩国鳥羽の湊と同じ出崎にて、沖よりの目当に高灯籠お常灯としてあり、されば西林院の境内にある猫塚の由来お聞に、或年の難風に沖の方より、船の敷板に子猫の乗たるが、波にゆられて流れ行お、西林院の住職は丘の上より見下して、不便の事に思はれ、舟人お急ぎ雇ひて小舟お走らせ、既に危き敷板の子猫お救ひ取、やがて寺中に養れけるが、畜類といへども必死お救はれし大恩お、深く尊み思ひけん、住職に馴てその詞お能聞解、片時も傍お放れず、斯る山寺にはなか〳〵能伽お得たるこゝちにて、寵愛せられしが、年お重ねて彼猫のはやくも十年お過し、遖れ逸物の大猫となり、寺中には鼠の音も聞事なかりし、さて或時寺の勝手お勤める男が、椽の端に転寝して居たりしに、彼猫も傍に居て庭おながめありし所へ、寺の隣なる家の飼猫が来て、寺の猫に向ひ、日和も宜しければ伊勢へ参詣ぬかといへば、寺の猫が雲、我も行たけれど、此節は和尚の身の上に危き事あれば、他へ出難しといふお聞て、隣家の猫は、寺の猫の側近くすゝみ寄、何やら咡き合て後に別れ行しが、寺男は夢現のさかひお覚へず、首おあげて奇異の思ひおなしけるが、其夜本堂の天井にて最怖ろしき物音し、雷の轟くにことならず、此節寺中には住職と下男ばかり住て、雲水の旅僧一人止宿て、四五日お過し居た、るが、此騒ぎに起も出ず、住持と下男は灯火お照らして彼是とさはぎけれども、夜中といひ、高き天井の上なれば、詮方なく夜お明しけるが、夜明て見れば、本堂の天井の上より生血のえたゝりて落けるゆへ、捨おかれず、近き傍の人お雇ひ、寺男と倶に天井の上お見せたれば、彼飼猫は赤に染て死し、又其傍に隣家の猫も疵お蒙りて半は死したるが如し、夫より三四尺お隔りて、丈け二尺ばかりの古鼠の、毛は針おうへたるが如きが生じたる怖ろしげなるが、血に染りて倒れ、いまだ少しは息のかよふ様なりければ、棒にて敲き殺し、やう〳〵に下に引おろし、猫おばさま〴〵介抱しけれども、二匹ながらたすからず、彼鼠はあやしひかな、旅僧の著て居たる衣お身にまとひ居たり、彼是と考へ察すれば、古鼠が旅の僧に化て来り、住職お喰はんとせしお、飼猫が旧恩の為に命お捨て、住職の災お除きしならんと、人々も感じ入、頓て二匹の猫の塚お立て回向おし、鼠も最怖ろしき変化なれば、捨おかれずと、住持は慈悲の心より猫と同じ様に塚お立て、法事おせられしが、今猶伝へて此辺お往来の人の噂に残り、塚は両墓ともものさびて寺中にあり、