[p.0242][p.0243]
源平盛衰記
二十六
馬尾鼠巣例並福原怪異事
此入道〈○平清盛〉の世の末に成て、家に様々のさとし有き、坪の内に秘蔵して立飼れける馬の尾に、鼠の巣お食て、子お生たりけるぞ不思議なる、舎人数多付て、朝たに撫払ける馬に、一夜の中に巣お食、子お生けるも難有、入道相国大に驚給ふに、陰陽頭安倍泰親被尋問ければ、占文のさす処、重き慎とばかり申て、其故おば不申けり、内々人に語けるは、平家滅亡の瑞相既に顕たり、近くは入道の薨去、遠くは平家都に安堵すべからず、如何にと雲に、子は北の方也、馬は南の方也鼠上るまじき上に昇る、馬侵さるまじき鼠に巣お作らせ子お生せたり、既に下剋上せり、されば子の北の方より、夷競上りて馬の南の方におはする、平家の卿上お都の外に追落すべき瑞相とこそ申けれ、され共入道の威に恐て、隻重き御慎と計申たりければ、まづ陰陽師七人まで、様々に祓せられけり、又諸寺諸山にして、御祈共始行あり、件の馬は、相摸国住人大場三郎景親が、東八箇国第一の馬とて進せたり、黒き馬の太く逞きが、額月の大さ白かりければ、名おば、望月とぞ申ける、秘蔵せられたりけれ共、重き慎と雲恐しさに、此馬おば泰親にぞ給ひける、昔天智天皇元年壬戌四月に、寮の御馬の尾に鼠巣お造り、子お生けり、御占あり、重き慎と申けり、さればにや世の騒も不斜、御門も程なく隠させ給ひにけり、日本紀に見えたり、異国には前漢の成帝の御宇、建治三年九月に、長安城の南に木あり、鼠彼末に登て巣おくひ子お生き、さればにや成帝程なく亡給にけり、思寄らざる処に鼠の巣お食、子生事は、其家の可亡怪異也、