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提醒紀談

蝙蝠
江戸浅草阿部川町なる一商家の土蔵の両よけ、俗にしたみといふもの破損せしかば、修復お加へんとて、その費お計るに、費はさのみ多からねども、折節儲の乏、しかりければ、大工と相談するに、大工の雲、増釘おうち、少々手お入れおかば、まづ此節は雨お防ぐに足りぬべし、さして改め造らざるも可らんといへるに任せて、遂に釘お加へうち、こゝかしこ補て事済ぬ、其後三年お経て、再び大に破壊したれば、こたびはいよ〳〵改めつくらんとて、大工おしでしたみの板おはなし見るに、その板と壁との間に、一匹の蝙蝠の棲るが、飛去りも得ずして居たり、これおよく〳〵見るに、その翼の釘にうち貫れて、たヾぐるりくるりと釘のまはりお摎るばかりなれば、これが為に庫の壁も輪の如く窪みたり、さてうち貫れたる釘のめぐりは、翼に環の如く肉お生じたり、彼大工これお見て嘆息して雲、かく蝙蝠お苦むること、これ乃我罪なり、この蝙蝠の歳月お経ること已に久しきうち、何お食物として活ることお得たるにやと思つゝ、心おつけて見るに、その棲るところの下に糞あり、いと不思議のことといへば、近きあたりの者この事お聞て、観に来るもの群集せり、その中にある人の雲、その蝙蝠は雌か雄かは知らねど、その偶の一つが餌おはこびて扶け養ふこと疑ふべからずといへり、かゝれば人みな其夫婦の情の厚きお感じ、涙おおとして憐れがりしとそ、大工も鎚おなげ捨て、涙ながらに、噫女蝙蝠なれど、我ためには慈悲お諭すの善知識にも異ならず、吾今より生涯ゆめ〳〵この事おば忘るまじといへり、かくて主人も改め造るに忍びず、その中うち貫たる釘お抜き放ちやりて、したみは改め造らざりけり、その蝙蝠はもとの如く棲みて夕暮毎に出入おなしたりとかや、〈天然訓〉