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大塚嘉樹著書

正月元日、柳営兎御吸物之起原、
徳川左京亮源有親〈後改長阿弥者、〉新田大炊助源義重七代目〈大系図には、八代目とあり、〉なり、永享年中、京都将軍義教公と、鎌倉管領足利持氏朝臣と不和にして、合戦に及、持氏敗北す、有親は嫡子足利太郎義久に従て御所お守り、敵お門外に追出して、裏門より義久お扇谷へ落す、三浦葛西の輩終に生捕る、有親父子囲お破りて領地徳川に蟄居す、永享十一己未年二月十日、持氏自害ありければ、京都より東国の制法お改め、ことに新田の氏族、草お分て捜し求るの由なれば、俗体にては安堵なりがたく、相州藤沢清浄寺に赴き、剃髪して長阿弥と号す、斯て東国の住居も成がたく、信州に赴く、援に林藤助光正と雲ものあり、持氏に仕へ、有親と交り猶厚し、永享九丁邑年、讒言に依て、勘気おうけ、信州田中に幽居す、渠お頼て永享十一己未年十二月廿七日、長阿弥光正が宅に尋至る、光正甚悦び、往事お語る、月迫して、其饗応の珍物なし、光正雪中お厭はず、兎お狩し矛一匹お得たり、申の正月元旦是お以饗応す、是兎の御吸物お以て御嘉例とする権輿なり、〈○中略〉
木村氏曰く、林氏代々歳末に兎お献ず、しかるに憲廟之治世より兎お鮮鯛に換ふ、是生殺お禁 じ玉ふ故なり、あヽ惜哉と雲々、
右、本之儘うつし置くもの也、
天明五年九月廿七日 嘉樹
○按ずるに、徳川幕府の時、元旦の吉例として兎の吸物お用いし事は、歳時部年始祝篇幕府年始祝条に詳なり、参看すべし、