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今昔物語
二十六
美作国神依猟師謀止生贄語第七
今昔、美作国に中参高野と申す神在ます、其神の体は中参は猿、高野は蛇にてぞ在ましける、毎年に一度其祭けるに生贄おぞ備ける、其生贄には国人の娘の未だ不嫁おぞ立ける、此は昔より近く成まで不怠して久く成にけり、而る間其国に何人ならねども、年十六七許なる娘の形ち清気なる持たる人有けり、父母此お愛して身に替て悲く思けるに、此娘の彼生贄に被差にけり、此は今年の祭の日被差ぬれば、其日より一年の間に養ひ肥してぞ次の年の祭には立ける、此娘被差て後、父母無限歎き悲びけれ共、可遁様無事なれば、月日の過に随て、命の促まるお、祖子の相見む事の残り、少く成行けば、日お計へて互に泣悲むより外の事無し、然る間東の方より事の縁有て、其国に来れる人有けり、此人犬山と雲事おして、数の犬お飼て山に入て、猪鹿お犬に令啖殺て取事お業としける人也、亦心ろ極て猛き者の物恐ぢ不為にてぞ有ける、其人其国に暫く有ける間、自然ら此事お聞てけり、而るに可雲事有て、此生贄の祖の家に行て雲入る程に、延有に突居て蔀の迫より臨ければ、此生贄の女糸清気にて色も白く、形も愛敬付て髪長くて田舎人の娘とも不見、品々しくて寄臥たり、物思たる気色にて、髪お振懸て泣臥たるお見て、此東人哀に思、糸惜く思ふ事無限、既に祖に会ぬれば物語など為、祖の雲く、隻一人侍る娘お、然々の事に被差て、歎き暮し思ひ明して、月日の過に随て別れ畢なむずる事の、近く侍お悲び侍る也、此る国も侍けり、前の世に何なる罪お造て、此る所に生れて、此く奇異き目お見侍らんと、東の人此お聞て雲く、世に有人命に増物無、亦人の財に為物子に増る物無し、其に隻一人持給へらむ娘お、目の前にて膾すに造せて見給はんも糸心疎し、隻死給ひね、敵有者に行烈して徒死為者は無やは有る、仏神も命の為にこそ怖しけれ、子の為にこそ身も惜けれ、亦其君は今は無人也、同死お其君我に得させ給ひてよ、我其替に死侍なむ、其は己に給ふとも苦しなど思給そと、祖此お聞て、然て其は何にし給はむと為ぞと問へば、東の人隻可為様の有也、此殿に有とて人に不宣して、隻精進すとて注連お引て置給べしと雲へと、祖の雲く、娘だに不死ば我は亡むに不苦と雲お、此の東の人に忍て娘お合せ、東人此お妻として過る程に、難去思ひければ、年来飼付たりける犬山の犬お二つ撰り勝りて、女よ我に代れと雲ひ聞せて、勤に飼けるに、山より密に猿お作生捕へ持来て、人も無所にて役と犬に教へて啖せ習はす、本より犬と猿とは中不吉者お、然か教へて習すれば、猿だに見れば数懸て啖殺す、此様に習はし立て、我は刀お微妙く磨て持たり、東の人妻に雲く、我は其御代りに死侍りなんとす、死は然る事にて別れ申しなむずるが悲しき也と、女不心得ども哀れに思ふ事無限、既に其日に成ぬれば、宮司より始めて多の人来て此お迎ふ、新き長櫃お持来て此に入よと雲て、長櫃お寝屋に指入たんば、男狩衣袴許お著て、刀お身に引副て長櫃に入ぬ、此犬二おば左右のnanに入臥せつ、祖共女お入たる様に思はせて取出たれば、鉾榊鈴鏡お持る者雲の如くして、前お追喤て行ぬ妻は何なる事か出来らむずらんと怖しきに、男の我に替ぬるお哀に思ふ、祖後の亡んも不苦、同じ無く成らんお此て止なんと思居たり、生贄御社に将参て祝申て、瑞籬の戸お開て、此長櫃結たる緒お切お指入て去ぬ、瑞籬の戸お閉て、宮司等外に著並て居たり、男長櫃お塵許〓開て見れば、長七八尺許ある猿横座に有り、歯は白して顔と尻とは赤し、次々の左右に猿百許居並て面お赤く成て眉お上て叫び喤しる、前に俎に大なる刀置たり、酢塩酒塩など皆居えたり、人の鹿などお下(おろ)して食んずる様也、暫許有て横座の大猿立て長櫃お開く、他の猿共皆立て共に此お開る程に男俄に出て犬に啖おれ〳〵と雲へば、二つの犬走り出て大なる猿お啖て打臥つ、男は凍の如なる刀お抜て、一の猿お捕へて俎の上に引臥て頭に刀お差宛て、女が人お殺して肉村お食ば此く為る、しや頸切て犬に飼てんと雲へば、猿顔お赤めて目おしば扣て、歯お白く食出して、涙お垂て手お摺ども、耳にも不聞入して、女が多年来多の人の子お啖るが替に、今日殺てん、隻今にこそ有めれ、神ならば我お殺せと雲て、頭に刀お宛たれば、此二の犬多の猿お啖殺しつ、適に生ぬるは木に登り山に隠れて、多の猿お呼び集めて、山響く許呼ばひ叫び合んども、更に益無し、而間一人の宮司に神託て宣はく、我れ今日より後永く此生贄お不得、物の命お不殺さ、亦此男我お此掕しつとて、其男お錯犯す事無かれ、亦生贄の女より始て其父母類親おも不可掕す、隻我お助けよと雲へば、宮司等皆社の内に入て、男に御神此く被仰、免し被申よと忝しと雲へば、男不免して我は命不惜、多の人の替に此お殺してむ、然して共に無成なんと雲て不免お、祝申し極誓言立つれば、男吉々今よりは此る態なせそと雲て、免奉れば逃て山に入ぬ、男は家に返て其女と永く夫妻として有けり、父母は婿お喜ぶ事無限、亦其家に露恐るヽ事無りけり、其も前生の果の報にこそは有けめ、其後其生贄立る事無して国平か也けりとなむ、語り伝へたるとや、
飛騨国猿神止生贄語第八
今昔、仏の道お行ひ行僧有けり、何くとも無く行ひ行ける程に、飛騨国まで行にけり、而る間山深く入て道に迷にければ、可出づ方も不思えけるに、道と思しくて木の葉の散積たりける上お分行けるに、道の末も無て、大なる滝の簾お懸たる様に、高く広くて落たる所に行著ぬ、返らんとすれ共道も不覚、行むとすれば手お立たる様なる巌の岸の、一二百丈許にて可掻登様も無れば、隻仏助け給へと念じて居たる程に、後ろに人の足音しければ見返て見に、物荷たる男の笠著たる歩て来れば、人来るにこそ有けれと喜く思て、道の行方問はむと思ふ程に、此男僧お見て極く怪気に思たり、僧此の男に歩び向て、何こより何て御する人ぞ、此道は何こに出たるぞと問へ共、答ふる事も無て、此滝の方に歩み向て、滝の中に踊り入て失ぬれば、僧此は人には非で鬼にこそ有けれと思て、弥よ怖しく成ぬ、我は今は何にも免れん事難し、然れば此鬼に不被食前に、彼が踊り入たる様に、此滝に踊り入て身お投て死なん、後には鬼咋とも非可苦かると思得、歩び寄て仏後生お助け給へと念じて、彼が踊り入つる様に、滝の中に踊り入たれば、面に水お灑ぐ様にて滝お通ぬ、今は水に溺れて死ぬらんと思ふに、尚移し心の有れば、立返て見れば、滝は隻一重にて早う簾お懸たる様にて有也けり、滝より内に道の有けるまヽに行ければ、山の下お通て細き道有、其お通り畢ぬれば、彼方に大きなる人郷有て、人の家多く見ゆ、然れば僧喜しと思て歩び行程に、此有つる物荷たりつる男、荷たる物おば置て走り向て来る、後に長しき男の浅黄上下著たる不後と走り来て、僧お引へつ、僧此は何にと雲へば、此浅黄上下著たる男、隻我許へ去来給へと雲て引将行に、此方彼方より人共数来て、各我許へ去来給へと雲て引しろへば、僧此は何為る事にか有んと思ふ程に、此く狼(みだり)がはしくな不為そとて、郡殿に将参て其定めに随てこそ得めと雲て、集り付て将行は、我にも非して行程に、大きなる家の有に将行ぬ、其家より年老たる翁の事々し気なる出て、此は何なる事ぞと雲へば、此物荷つる男の雲、此は、己が日本の国より将詣来て此人に給ひたる也と、此浅黄上下著たる者お指て雲へば、此年老たる翁此も彼も可雲に非ず、彼主の可得なヽりと雲て取せつれば、異者共は去ぬ、然れば僧浅黄の男に被得て、其れが将行方に行、僧此は皆鬼なめり、我おば将行て啖はんずるにこそと思ふに悲くて涙落、日本の国と雲つるは、此は何なる所にて此く遠気には雲ならそと怪び思ふ気色お、此浅黄の男見て僧に雲く、不心得な思不給そ、此は糸楽き世界也、思ふ事も無て豊にて有せ奉む為也と雲程に家に行著ぬ、家お見れば有つる家よりは少し小けれども、可有かしく造て、男女の眷属多かり、家の者共待喜て走り騒ぐ事無限、浅黄の男、僧お疾く上り給へとて板敷に呼上れば、負たる笈と雲物お取て傍に置て、蓑笠藁沓など脱て上ぬれば、糸吉くたる所に居えき、先物疾く参よと雲へば、食物持来たるお見れば、魚鳥お艶(えもいは)ず調へたり、僧其お見て不食した居たれば、此浅黄の男出来て、何と此おば不食ぞと、僧幼くて法師に罷り成て後、未だ此る物おなむ食ねば、此く見居て侍る也と雲へば、浅黄の男現(げ)に其は然も侍るらん、然れども今は此御ましぬれば、此物共不食では否不有、悲く思ひ侍る娘の一人侍るが奉だ嬪(やもめ)にて年も漸ぐ積りて侍れば、其に合せ奉らんずる也今日よりは其御髪おも生(なほ)し給て御ませ、然りとて今は外へ可御方も有まじ、隻申に随て御せと雲ければ、僧此く雲んに違て心お持成さば、被殺もこそ為れ、怖く思るに合せて遁れ可行方も無れば、習ひ無事なれば然申す許也、今は隻宣はんにこそ随めと雲へば、家主喜て我食おも取出て、二人指向て食てけり、僧仏何に思食らんと思けれ共、魚鳥も能食畢つ、其後夜に入て年廿許なる女の形有様美麗なるが、能装束きたるお家主押出して、此奉る、今日よりは我思ふに不替哀に可恵也、隻一人侍る娘なれば、其志の程お押量り可給とて返入たれば、僧雲甲斐無て近付ぬ、此て夫妻として月日お過すに、楽き事物に不似、衣は思に随て著す、食物は無物無く食すれば、有しにも不似引替たる様に太りたり、髪も髻に被取る許に生ぬれば、引結上て烏〓子したる形ち糸清気也、娘も此夫お極く難去思たり、夫も女の志しの哀なるに合せて、我も労(いたはし)く思えければ夜昼起臥し明し暮す程に、墓無て八月許にも而る間其程より此妻気色替て極じく物思たる姿也、家主は前々よりも労く増て、男は宍付き肥たるこそ吉れ、太り給へと雲て、日に何度とも無物お食すれば、食肥るに随て此妻はさめ々々と泣時も有、夫此お怪び思て、妻に何事お思ひ給ふぞ、心得ぬ事也と雲へども、妻隻物の心細く思ゆる也と雲て、其に付ても泣増れば、夫心も不得怪しけれども、人に可問事ならねば、然て過る程に、客人来て家主に会たり、互に物語為お和ら立聞けば、客人の雲く、賢く思ひ懸ぬ人ど雲へば、家主其事に侍り、此人お不お得給て、娘の平かに御さんずるこそ何に喜く思すらんな得ましかば、近来何なる心侍らまし、隻今までは求得たる方侍らねば、明年の近来何なる心せんずらんとて、後に出て去ぬれば、家主返り入まヽに物参らせつや、吉く食よなど雲て、食物ども遣せたれば、此お食に付ても妻の思ひ歎泣く心不得、客人の雲つる事も、何なる事にかと怖しく思れば、妻に掍(おこつり)間ども、物雲はヾやとは思たる気色作ら雲事も無し、而る間此郷の人々事急く気色にて、家毎に饗膳など調へ喤る、妻泣思たる様日に副(そへ)て増れば、夫妻に泣み咲み極き事有とも、我によも不隔給とこそ思つるに、此く隔けるこそ㑋けれとて恨み泣ければ、妻も打泣て争か不申じとは思はんずる、然ども見聞えんずる事の今幾も有まじければ、此く睦ましく成けん事の悔き也と雲も不遣泣けば、夫我可死事の侍るか、其は人の遂に不免道なれば、苦かるべき事にも非ず、隻其より外の事は何事か有ん、隻宣へと責雲ければ、妻泣々一雲く、此国には糸ゆヽしき事の有也、此国に験じ給ふ神の御するが、人お生贄に食也、其御し著たりし時、我も得む々々と愁へ喤しは、此料にせんとて雲し也、年に一人の人お廻り合つヽ生贄お出すに、其生贄お求不得時には、悲しと思ふ子なれども其お生贄に出す也、其不御ましかば、此身こそは出て神に被食ましと思へば、隻我替て出なんと思ふ也と雲て泣ば、夫其おば何に歎き給ふ、糸安き事なヽり、然て生贄おば人造て神には備ふるかと問へば、妻然には非ず、生贄おば裸に成て俎の上に直ぐ臥て、瑞籬の内に掻入て、人は皆去ぬれば、神の造て食となん聞、痩弊き生贄お出しつれば、神の怒て作物も不吉、人も病、郷も不静とて、此何度と無物お食せて食ひ太らせんと為也といへば、夫月来労つる事共皆心得て、然て此生贄お食らん神は、何なる体にて御するぞと問ば、妻猿の形に御すとなん聞と答ふれば、夫妻に語ふ様、我に金吉らん刀お求て令得てんやと、妻事にも非ずと雲て刀一つお構て取せてけり、夫其刀お得て返々す鋭て隠して持たりけり、過ぬる方よりは勇み寵て、物おも吉く食太りたりければ、家主も喜び、此お聞継者も郷吉かるべきなめりと雲て喜びけり、此て前七日お兼て此家に注連お引つ、此男にも精進潔斎せさす、家々にも注連お引慎み合たり、此妻は今何日ぞと計へて泣入たるお、夫雲億つヽ事にも不思おぞ妻少し億ける、此て其日に成ぬれば、此男に沐浴せさせ、装束直くさせて、髪削らせて髻取せて、鬢直く掻疏ひ傅立る間に、使何度とも無来つヽ遅々しと責れば、男は舅と共に馬に乗て行ぬ、妻は物も不雲して引被て泣臥たり、男行著て見れば、山の中に大きなる宝倉有、瑞籬事々しく広く垣籠たり、其前に饗膳多く居えて人共員不知著並たり、此男は中に座高くして食はず、人共皆物食酒呑などして舞楽ひ畢て後、此男お呼立て裸に成、絬お放せて努々不動して物雲なと教へて含て、俎の上に臥て俎の四の角に榊お立、注連木綿お懸け、集て掻て前お追て瑞籬の内に掻居えて、瑞籬の戸お引閉て人一人も無返ぬ、此男は足お指延たる胯の中に、此隠して持たる刀お然気無て夾みて持たりけり、而る間一の宝倉と雲ふ宝倉の戸すヾろにきと鳴て開けば其にぞ少し頭の毛太りてむくつけく思ける、其後次次の宝倉の戸其次第に開渡しつ、其時に大きさ人許の猿、宝倉のnanの方より出来て、一の宝倉に向てかヾめけば、一の宝倉の簾お掻開て出る者有、見れば此も同じ猿の歯は銀お貫たる様なる、今少し大きに器量き歩出たり、此も早う猿也けりと見て心安く成ぬ、此様にしつヽ宝倉より次第に猿出居て著並て後彼初め宝倉のnanより出来たりつる猿、一の宝倉の猿に向居たれば、一の宝倉の猿かヾめき雲に随て、此の猿生贄の方様に歩び寄来て、置たる魚箸刀お取て、生蟄に向て切んと為程に、此生贄の男胯に夾たる刀お取まヽに俄に起走て、一の宝倉の猿に懸れば、猿周(あわけ)て仰様に倒たるに、男やがて不起して押懸りて踏へて刀おば末だ不指宛て、己や神卜雲へば、猿手お摺異猿共此お見て、一つも無逃去て木に走り登てかヾめき合たり、其時に男傍に葛の有け るお引断て此猿お縛て柱に結付て、刀お腹に指宛て雲、や己は猿にこそば有けれ、神と雲虚名乗おして、年々人お啖はむは極き事には非ずや、其二三の御子と雲つる猿慥に召出せ、不然は突殺てん、神ならばよも刀も立じや、腹に突立て試んと雲て、塵許棲る様にするに、猿叫て手お摺に、男然らば二三の御子と雲ふ猿疾召出せと雲ば、其に随てかヾめけば二三の御子と雲猿出来たり、亦我お切らんとしつる猿召せといへば、亦力ヾめけば其猿出来ぬ、其猿お以て葛お折に遣て二三の御子お縛て結付つ、亦其猿おも縛て己我お切んとしつれ共、此く随はヾ命おば不断、今日より後案内も知ぬ人の為に祟お成し、不吉事おも至さば其時になん、しや命は断てんと為と雲て、瑞籬の内より皆引出して木の本に結付つ、然て人の食物共したる火の残て有けるお取て、宝倉共に次第に付渡せば、此社より郷の家村は遠く去たれば、此く為事共おも否不知ら有けるに、社の方に火の高く燃上たりけるお見て、郷の者共此は何なる事ぞと怪み騒けれども、本より此祭して後三日が程は家の門おも閉籠て、人一人も外に出る事無りければ、騒ぎ迷ひ作ら出て見る人も無し、此生贄お出しつる家主は、我生贄の何なる事の有にかと、静心無怖しく思ひ居たり、此生贄の妻は、我男の刀乞取て隠して持たりつる怪かりつるに合せて、此く火の出来たるは、彼が為態ならんと思て、怖しくも不審くも思ふ程に、此生蟄の男、此猿四お縛て前に追立て、裸なる者の髻放たるが、葛お帯にして刀お指て杖お突て、郷に来て家々の門に臨つヽ見れば、郷の家々の人此お見て、彼生賛の御子達お縛て前に追立て来るは何なる事ぞ、此は神にも増たりける人お、生贄に出したりけるにこそ有けれ、神おだに此す、増て我等おば啖やせんずらんと恐て迷ひけり、而る間生贄舅の家に行て門お開よと叫けれ共、音も不為お、隻開よよも惡事不有、不開ば中々惡き事有なんと、疾く開よと門お踏立れば、舅出来て娘お呼出して、此は極き神にも増たりける人にこそ有けれ、若我子おば惡とや思ふらむ、和君門お開て雲誘へよと雲へば、妻怖し作ら喜しく思て、門お細目に開たれば、押開るに妻立れば疾く入て、其装束取て得させよと雲へば、妻即返入て狩衣袴鳥帽子など取出たれば、猿共おば家戸の許に強く結付て、戸口にて装束して、弓胡錄の有けるお乞出て、其お負て舅お呼出て雲く、此お神と雲て年毎に人お食せける事、糸奇異しき事也、此は猿九と雲て、人の家にも繫て飼ば被飼て人にのみ被掕て有者お、案内も不知して、此に年来生たる人お食せつらん事極て愚也、己が此に侍らん限は、此に被掕る事有まじ、隻己に任せて見給へと雲て、猿の耳お痛く摘ば、念じ居たる程糸可咲、此人には随ひたりける者にこそ有けれと見るに、憑しく成て雲く、己等は更に此る案内も不知侍けり、今は君おこそは神と仰ぎ奉て、身お任せ奉らめ、隻仰のまヽと雲て手お摺ば、去来給へ有し大領の許へと雲て、舅具して猿丸丑はお前に追立て行て門お叩くに、其も不開お、舅と有て此隻開給へ、可申事有、不開給ば中々惡き事有なんと雲、恐しければ、大領出来て恐々門お開て、此生贄お見て土に平み居たれば、生贄猿共お家の内に引列て、目お嗔かして猿に向て雲く、己が年来神と雲虚名乗おして、年に一人の人お食ひ失ひける、己更よと雲て弓箭お番て射ぬれば、猿叫て手お摺て迷ふ、大領此お見て、奇異しく怖し気に思て、舅の許に寄て、我等おもや殺し給はんずらん、助け給へと雲へば、舅隻御せ己が侍らんには、よも然る事不有といへば、憑しく思て居に、生贄吉々己が命おば不断じ、此より後右此辺に見えて、人の為に惡き事お至さば、其時に必ず射殺してんとするぞと雲て、杖お以て廿度許づヽ次第に打渡て、郷の者共皆呼集て、彼社に遣て、残たる屋共皆壊集めて火お付ら焼失ひつ、猿おば四作祓負せて追放けり、片蹇きつヽ山深く逃入て、其後敢て不見けり、此の生贄の男は、其後其郷の長者として、人お皆進退し仕ひて、彼妻と棲てぞ有ける、此方にも時々密に通ければ、語り伝たる成べし、本は其には馬牛も狗も無りけれども、猿の人掕するが為とて、狗の子か仕はん料にとて、馬の子など将渡して有ければ、皆子共産てぞ有ける、飛騨国の傍に此る所有とは聞けども、信濃国の人も、美濃国の人も行事無か也、其の人は此方に密に通なれども、此方の人は行事無か也、此お思ふに彼僧の其所に迷ひ行て生贄おも止、我も住ける、皆前世の報にこそは有らめとなん、語り伝へたるとや、