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今昔物語
二十九
鎮西猿打殺鷲為報恩与女語第卅五
今昔、鎮西の国の郡に賤き者有けり、海辺近き所に住ければ、其妻常に浜に出て礒おしけるに、隣に有ける女と二人、礒に出て貝つ物お拾けるに、一人の女二歳許の子お背に負たりけるお、平也ける石の上に下し置て、亦幼き童の有けるお付て遊ばせて、女は貝お拾ひ行く程に、山際近き浜なれば、猿の海辺に居たりけるお、此の女共見て、彼れ見よ彼に魚伺ふにや有らむ、猿の居るお去来行て見むと雲て、此の女二人列て歩び寄るに、猿逃て行かむずらむと思ふに、怖し気には思たる物から、難堪気に思て否不去てかヾめき居ければ、女共何なること有るぞと思て立廻て見れば、溝貝と雲物の大きなるが、口お開て有けるお、此の猿の取て食はむとて手お差入れたりけるに、貝の覆てければ、猿の手お咋へられて否不引出さて、塩は隻満に満来るに、貝は底様に堀入る、今暫し有ては塩満て海に入べき程に、此の女共此れお見て咲ひ喤るに、一人の女此の猿お打殺さむとて、大きなる石お取て罰むと為るお、今一人の子負たりつる女、ゆヽしき態為る御許かな、糸惜気にと雲て罰むと為る石お奪へば、罰たむとする女、此る次でに此奴お打殺して、家に持行て焼て食はむと思ふはと雲けれども、此の女強に乞請て、木お以て貝の口に差入れてければ、少し排たれば猿の手おば引出でつ、然て猿お助けむとて貝お可殺きに非ずと雲て、異貝共おば拾ふ心なれども、其の貝おば和ら引抜て沙に掻埋てけり、然て猿は手お引抜て走り去て、此の女に向て事吉気顔造て居ければ、女己よ人の打殺さんとしつるお、強に乞請て免すはの志にも非ず、獣也とも思ひ知れと雲て、猿此れお聞顔にて、山様に走り行けるが、此の女の子居たる石の方様に走り懸りて行ければ、女恠と思ふ程に、猿其の子お掻抱て山様に、逃て行ければ、付て置たりつる小童此れお見て鍔泣けるお、母聞付て見やりたるに、猿我が子お抱て山様に走り入れば、女彼の猿の我が子お取て行くは、物思ひ不知ざりける奴かなと雲へば、打殺さむとしつる女は然てこそよ、和御許面に毛有る者は物の恩知る者かは、打殺たらましかば我れ所得したる者の、和御許の子は不被取ざらまし、然ても妬き奴かなヽど雲て、女二人作ら走り懸りて追へば、猿逃れどもに遠くは不逃去ずして山へ入るに、女共痛く走り追へば、其れに随て猿も走る、女共静に歩へば、猿も静に歩び去つヽ一町許お隔て山深く入れば、後にも女共不走ずして猿に向て、心疎かりける猿かな、己が命の失ぬべかりつるお助けぬるお、其れお喜と思はむことこそ難からめ、我が悲と思ふ子お取て行くは、何かに思ふぞ、譬ひ其の子お食はむと思ふとも、命お生つる代に、我れに其の子お得させよと雲ふ程に、猿山深く入て大きなる木の有るに子お抱き作ら遥かに登ぬ、母は木の本に寄て異き態かなと思て、見上て立てれば、猿木の末に大きなる胯の有るに子お抱て居り、一人の女は家に返て、和御許の主に告むと雲て走返て行ぬ、母は木の本に留て見上て泣居たれば、猿木の枝の大きなるお引撓て持て、子おば脇に挟て子お動かせば、子音お高くして泣く、泣止れば亦泣かせ為る程に、鷲其音お聞て取らむと思て疾く飛て来る也けり、母此れお見て何様にても我が子は被取なむずるにこそ有けれ、猿不取ずとも、此の鷲に必ず被取なむとすと思て泣居る程に、猿此の引撓たる枝お今少し引撓て、鷲の飛て来るに合せて放たれば、鷲の頭に当て逆様に打落しつ、其の後猿尚其枝お引撓て子お泣せければ、亦鷲飛来たるお、前の如くして打落しつ、其時には母心得ける、早う此の猿は子お取らむとには非ざりけり、我れに恩お酬むとて、鷲お打殺して我れに得させむと為る也けりと思て、彼の猿よ志の程は見つ、然計にて隻我が子お平かにて得させよと、泣々く雲ける程に、同様にして鷲五つ打殺してけり、其の後猿他の木に伝て、木より下て、子お木の本に和ら居えて、木に走り登て、身打掻て居ければ、母泣々く喜で子お抱て、乳飲せける程にぞ、子の父の男走り喘たきて来たりければ、猿は木に伝ひて失にけり、木の下に鷲五つ被打落て有ければ、妻夫に此のことお語りけるに、夫も何かに奇異く思けむ、然て夫其の鷲五つが羽尾お切取て、母は子お抱て、家に返りにけり、然て其の鷲の尾羽お売つヽ仕ける、恩報ずと雲作ら、女が心何かに詫しかりけむ、此れお思ふに獣なれども恩お知ることは、此なむ有ける、何況や心有らむ人は、必ず恩おば可知き也、但し猿の術こそ糸賢けれとぞ人雲けるとなむ、語り伝へたるとや、