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古今著聞集
二十/魚虫禽獣
越後の国に乙寺といふ寺に法花経持者の僧住て、朝夕誦しけるに、二の猿来りて経お聞けり、二三日おへて、僧こゝうみに猿に向て雲やう、女なにの故に常に来るぞ、もし経お書奉らんと思ふかといへば、二の猿掌お合て僧お頂礼しけり、あはれに不思議に思ふ程に、五六日おへて数百の猿あつまり、かうぞの皮おおふて来りて僧の前にならべおきたり、此時僧これお、取て料紙にすかせてやがて経お書奉る、其間二の猿やう〳〵くだものお持て、日々に来りて僧にあたへけり、かくて第五巻に至る時此猿見えず、あやしく思て山おめぐりてもとむるに、ある山の奥にかたはらに山のいもおおきて、頭お穴の申に入てさかさまにして二の猿死してあり、山のいもお深くほり入て、穴に落入てえあがらずして死したるなめり、僧あはれにかなしき事限りなし、其猿のかばねお埋みて念仏申て廻向して帰りぬ、其後経おばかきおへずして、寺の仏前の柱おえりてその中に奉納してさりぬ、其後四十余年おへて紀躬高朝臣当国の守になりて下りたりけるに、先かの寺に詣て住僧お尋て問やう、もし此寺に書おはらざる経やおはしますと尋れば、其昔の持経の僧、いまだいきて八旬のよはひにて、出て此経の根元おかたる、国司大きに歓喜して雲く、われ此願お果さんが為に、今当国の守に任じて下り来れり、昔の猿はされば我なり、経の力によりて身お得たるなりとて、則更に三千部お書奉り、かの寺いまだあり、更にうきたる事にあらず、〈○中略〉
文覚上人高雄興隆の頃、見まはりけるに、清滝川の上に大なる猿両三匹有けるが、一の猿岩の上にあふのき伏て動かず、二匹は立のきていたりけり、上人あやしみ思ひてかくれて見ければ、鳥一両飛来て、此ねたる猿のかたはらにいたり、しばしばかり有て、猿の足おつゝきけり、猿猶はたらかず死にたる様にてあれば、烏次第につゝきて、上にのぼりて目おくじらんとしける時、猿烏の足お取ておきあがりにけり、其時残の猿二匹出来りて、長きかづらお持て烏の足に付てけり、烏飛去らんとすれどもかなはず、さてやがて川におりて、烏おば水に投入てかづらのさきお取て一匹は有、今二匹は川上より魚おかりけり、人の鵜つかひけるお見て、魚おとらせんとしけるにや、ふしぎにぞ思よりたりける、烏は水になげいれられたれども、其益なくてしにければ、猿共は打すてゝ山へ入にけり、ふしぎなりし事まのあたり見たりしとて、則上人かたりける事なり、近頃常陸国たかの郡に一人の上人有けり、大なる猿おかひけり、件の上人妙法経かゝんとて、かうぞおこなして料紙すきける時、此猿に向ひて、なんぢ人なりせば、是程の大願に助成などはしてまし、畜生の身、口おしとは思はぬかといひたりければ、猿うち聞て何とかいふらん、口おはたらかせ共きゝしる人なし、かくて其夜猿うせにけり、朝にもとむれ共、すべて行方おしらず、はやく此猿他の郡へ行てけり、或人のもとに白栗毛なる馬おかひける馬屋に至て、件の馬お盗みてけり、いづくにてか取たりけん、下臘の著る手なしといふ布著物お著て、鎌お腰にさしてあみ笠おなんきたりける、其馬に打のりてひじりの許へ行けるお、馬主追て来けり猿かねて其心お得て、人ばなれの山のそば野中などお来ければ、馬ぬしも見あはで人々に問ければ、其山のそば其野の中おこそ、十四五ばかりなる童、其色の馬にのりて行つれと対へければ、其道にかゝりて追て行に、はやく馬主のこざりけるさきに、此さるひじりの許に来て、馬つなぎて何とかいふらんひじりに向ひて、さま〴〵にくどきごとおしける、折ふし馬主追て来けり、上人此次第お有のままに始よりかたりて猿お見せければ、馬ぬしかく程のふしぎにて候はん、いかでか此馬返し給候べき、畜生だにも妙法経の助成の志候て、かゝるふしぎお仕候に、まして人倫の身にて、などか結縁したてまつらざらん、速に此馬お法花経に奉るべしといひて帰りにけり、なさけある馬主なり、此事更にうきたる事にあらず、まさしく其様見たりしとてかたり申人侍り、此事は、畠山庄司次郎がうたれし年の事になん侍ける、〈建仁二年壬戌年也〉