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沙石集
八上
鳥獣恩知事
中比、伊豆国の或処の地頭に若男有けり、猟しけるついでに、猿お一匹いけどりにして、足おしばりて、家の柱に結付たりけるお、彼母の尼公慈悲ある人にて、あらいとおし、如何に詫しかるらむ、あれとき許して山へやれといへども、郎等冠者原、主の心お知て、恐れて足おとかず、いで去らば我とかんとて、足おとき許して、山へやりぬ、是は春の事成けるに、夏覆盆子の盛に、覆盆子お柏の葉に裹みて、ひまお伺ひお此猿、尼公に渡し奉けり、あまりに哀にいとおしく思ひて、布の袋に大豆お入て猿にとらせつ、其後栗の盛に先の布の袋に栗お入て、ひまお伺ひ又持て来る、此度は猿おとらへて置て、子息およびて、此次第お語りて、子々孫々迄も此処に猿殺さしめじと起請お書け、若さらずば母子の儀有べからずと、おびたヾしく誓状しければ、子息起請書きて、当時迄も此処に猿お殺さぬ由、或人語りき、所の名迄は承らず、まして人として恩おしらざらんは、げに畜生にも猶劣れり、近代は父母お殺し、師匠お殺す者、聞へ侍り、悲き濁世の習なるべし、