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太平記
十七
山門攻事附日吉神託事
般若院の法印が許に召仕ける童、俄に物に狂て、様々の事お口走けるが、我に大八王子の権現つかせ給たりと名乗て、此御廟の材木急ぎ本の処へ返し運ぶべしとぞ申ける、〈○中略〉後日にこそ奏聞お経めと申て、其日の奏し事お止めければ、神託空く衆徒の胸中に蔵れて、知人更に無りけり、山門には西坂に軍あらば本院の鐘おつき、東坂本に合戦あらば生源寺の鐘お鳴すべしと、方々の約束お定たりける、援に六月廿日の早旦に、早尾の社の猿共数多群来て、生源寺の鐘お、東西両塔に響渡る程こそ撞たりけれ、諸方の官軍九院の衆徒是お聞て、すはや相図の鐘お鳴す、さらば攻口へ馳向て防がんとて、我劣らじと渡り合ふ、東西の寄手此形勢お見て、山より逆寄に寄するぞと心得て、〈○中略〉楯よ物具よと周章色めきける間、官軍是に利お得て、山上坂本の勢十万余騎、木戸お開き逆茂木お引のけて打て出たりける、〈○中略〉大将高豊前守〈○師重〉は太股お我太刀に突貫て引兼たりけるお、舟田長門守が手の者是お生虜り、白昼に東坂本お渡し、大将新田左中将〈○義貞〉の前に面縛す、〈○中略〉若党の一人も無して、無雲甲斐敵に被生捕けるは、偏に医王山王の御罰也けりと、今日は昨日の神託によりけるにやと被思合て、身の毛も弥立つ計也、