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兎園小説
十一集
白猿(○○)賊おなす事 文宝堂
佐竹侯の領国、羽州に山役所といふ処あり、此役所お預りおる大山十郎といふ人、先祖より伝来する所の貞宗の刀お秘蔵して、毎年夏六月に至れば、是お取り出だして、風お入るゝ事あり、文政元年六月例のごとく、座敷に出だし置きて、あるじもかたはら去らず、守り居けるに、いづこよりいつのまに来りけん、白き猿の三尺ばかりなるが一匹来りて、かの貞宗の刀お奪ひ立ち去り、ゆくりなき事にて、あるじもやゝといひつゝおつとり刀にて、追ひかけ出づるお何事やらんと従者共もあるじのあとにつきて走り出でつゝ、追ひゆく程に、猿は其ほとりの山中に入りて、ゆくへおしらず、あるじはいかにともせんすべなきに、途中より立ち帰り、この事従者等おはじめとして、親しきものにも告げしらせ、翌日大勢手配りして、かの山にわけ入り、奥ふかくたづねけるに、とある芝原の広らかなる処に、大きなる猿二三十匹まといして、其中央にかの白猿は、藤の蔓お帯にしつ、きのふ奪ひし一腰お帯び、外の猿どもと何事やらん談じいる体なりこれお見るより十郎はじめ、従者も刀おぬきつれ、切り入りければ、猿ども驚き、こと〴〵く逃げ去りけれども、白猿ばかりは、かの貞宗お抜はなし、人々と戦ひけるうち、五六人手負たり、白猿の身にいさゝかも疵つかず、度々切つくるといへども、さらに身に通らず、鉄砲だに通らねば、人々あぐみはてゝ見えたるに、白猿は猶山ふかく逃げ去りけり、夫より山猟師共おかたらひけるに、此猿たま〳〵見あたる時も候へども、中々鉄砲も通らずといへり、此後いかになりけん、今に手に入らざるよし、