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松の落葉

ざおしか(○○○○)
故鈴の屋大人のいはれしは、万葉集なる、鹿の字は、みな加とよむべし、しかとよみては、いづれも文字あまりて、しらべわろし、しかにはかならず、牡鹿と牡の字おそへてかけり、心おつくべし、鹿の字おしかとよみてよろしきは、わづかにひとつふたつなりといはれき、此考によりて、ある人さおしかの事お、しかは牡鹿のこと、さはそへていへる詞にて、おは小のこゝうなちんといへり、かの万葉集に、左小牡鹿ともかきたれば、げにさることのやうなれど、よくおもひめぐらすに、さにはあらじ、さと小とかさねていへる例も見えず、さはそへていふ詞、おは男にて、しかは鹿なるべし、和名抄に鹿〈和名加〉とあれども、昔よりしかともいひつらんとおもはるゝは、同書に麋〈於保之加〉新撰字鏡に、麞〈久自加、又於保自加、〉とあるは、皆大鹿のこゝろにて、大牡鹿の心にはあらず、又万葉集八の巻、〈三十〉〈八丁に〉呼立而(よびたてヽ)、鳴奈流鹿之(なくなるしかの)、同巻、〈三十九丁に〉猪養山爾(いかひやまに)、伏鹿之(ふすしかの)、同巻、〈四十八丁に〉秋芽子師努芸(あきはぎしぬぎ)、鳴鹿毛(なくしかも)同巻、〈同丁に〉山下饗(やましたとよみ)、鳴鹿之(なくしかの)、同巻、〈四十九丁に〉秋野乎(あきのぬお)、旦往鹿乃(あさゆくしかの)と見えたる歌ども、みなしかとよむべく、かとよみては、しらべとゝのはねば、鹿おしかともいひしこと、いよ〳〵さだかにて、牡鹿にかぎりていふ名にはあらざるなり、万葉集にしかといふに、おり〳〵牡鹿ともかけるは、ことわりおもて、牡といふもじおそへたるものぞ、さるは鹿お歌によむは、鳴声おめでゝの事にて、すべてみな牡鹿のうへおいへればなり、故大人はこの事に心つかれずして、おもひあやまられたり、かみのくだりにもいへるごとく、八の巻ひと巻にも、鹿といふもじお、加とはよまれぬ歌五つあれば、万葉集なるはみな加とよむべしとは、いはれぬことなるおや、