[p.0325][p.0326]
源平盛衰記
三十六
清章射鹿並義経赴鵯越事
同六日〈○元暦元年二月〉の未明、上の山より巌崩れて落、柴の梢ゆるぎければ、城の中にはすはや敵の寄るはとて、各甲の緒おしめ、馬に騎笞お取て待処に、雄鹿二、雌鹿一つヾきて出来れり、能登守〈○教経〉は此鹿の下様お思ふに、一定敵が寄ると覚えたり、援にはまん鹿だにも人に恐て深く山に入べし、深山の鹿争力人近く下るべき、菩薩お山の鹿に喩へたり、招けども不来といへり、敵の近付る条子細なし、我と思はん者あますなと宣へば、伊予国住人高市武者所清章は、馬の上にも歩立にも弓の上手なる上に、而も猟師成けるが、折節射付馬の早走に乗たりけり、一鞭あてヽ弓手に相付て箙の上さし抜出して、雄鹿二は同く草に射留つ、雌鹿一は逃てけり、不意狩したり、殿原草分のかふそ、しヾのはづれ、肝のたはね、舌の根、鹿の実には能処ぞ、鹿食へ殿原と雲けれ共、大形の匆匆の上、軍場にて鹿食ふ事憚あり、其上稲村明神とて程近く御座ければ、松の二三本有ける本に棄置けり、それよりしてこそ、そこおば鹿松村とも名付けれ、〈○中略〉
鷲尾一谷案内者事
御曹司〈○源義経〉は、如何に鷲尾○経春山の案内はと問給ふ、此山おば鵯越とて極たる惡所、左右なく馬人通るべし共覚えず、〈○中略〉なて此山には鹿は無か、彼惡所おば鹿は通らずやと問給ふ、鹿こそ多く候へ、世間寒く成候へば、雪の浅りに食んとて、丹波の鹿が一の谷へ渡り、日影暖に成ぬれば、草の滋みに臥さんとて、一の谷より丹波へ帰候也と申す、〈○中略〉御曹司は是お聞給ひ、殿原さては心安し、やおれ鷲尾鹿にも足四、馬にも足四、尾髪の有と無と、爪の破たると円きと計也、西国の馬は不知、東国の馬は鹿の通る所は馬場ぞ、打てや殿原とて、〈○中略〉北の山の下にぞ至りける、