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今昔物語
十四
為救野干死写法花人語第五
今昔、年若くして形美麗なる男有けり、誰人と不知ず侍の程の者なるべし、其の男何れの所より来けるにか有けむ、二条朱雀お行くに、朱雀門の前お渡る間、年十七八歳許なる女の、形端正にして姿美麗なる微妙の衣お重ね著たる大路に立てり、此の男此の女お見て難過く思て、寄て近付き触るれば、門の内に人離たる所に女お呼び寄せて、二人居て万づに語雲ふ、男女に雲く、可然くて如此く来り会へり、同じ心に可思き也、君我が雲はむ事に随へ、此れ勤に思ふ事也と、女の雲く、此れ可辞事に非ず、雲はむ事に可随しと雲へども、我れ若し君の雲はむ事に随ひては、命お失はむ事疑ひ無き也と、男何事お雲ふとも不心得ずして隻辞ぶる言也と思て、強に此の女と懐抱せむとす、女泣々く雲く、君は世の中に有て家に妻子お具せるらむに、隻行すりの事にてこそ有れ、我れは君に代て戯れに永く命失はむ事の悲き也、如此く諍ふと雲へども、女遂に男の雲ふに随ぬ、而る間日暮て夜に入ぬれば、其の辺近き小屋お借て将行て宿ぬ、既に交臥して終夜ら行く末までの契お成して夜暁ぬれば、女返り行くとて男に雲く、我れ君に代て命お失はむ事疑ひ無し、然れば我が為に法華経お書写供養し後世お訪へと、男の雲く、男女の交通する事世の常の習ひ也、必ず死ぬる事あらむや、然れども若し死なば必ず法花経お書写供養し奉らむ、女の雲く、君我が死なむ事実否お見むと思はヾ、明朝に武徳殿の辺に行て可見し、但し注にせむが為にと雲ひて、男の持たる扇お取て泣々く別れて去ぬ、男此お実とも不信ずして家に返ぬ、明る日女の雲し事若し実にや有らむ行て見と思て、武徳殿に行て廻り見る時に、髪白き老たる姥出て男に向て泣く事無限し、男嫗に問て雲く、誰人の何事に依て此くは泣くぞと、嫗答て雲く、我れは夜前朱雀門の辺にして見給ひけむ人の母也、其の人は早う失給ひにき、其の事告奉らむとて此に侍りつる也、其の死人は彼に臥し給へりと、指お差して教へて掻消つ様に失ぬ、男恠しと思て寄て見れば、殿の内に一の若き狐、拓お面に覆て死て臥せり、其の扇我が夜前の扇也、此れお見に、然ば夜前の女は此の狐にこそ有けれ、我れは然ば通じにけりと、其の時にぞ始めて思ふに、哀れに奇異にて家に返ぬ、其の日より始めて七日毎に法花経一部お供養し奉て、彼れが後世お訪ふ、未だ七々日に不満ざる程に、男の夢に彼の有し女に値ぬ、其の女お見れば、天女と雲ふらむ人の如く身お荘たり、亦同様に荘れる百千の女有て此れお囲摎せり、此の女、男に告て雲く、我れ君が法花経お供養して我お救ひ給ふに依て、劫々の罪お滅して今忉利天に生れぬ、此の恩量り無し、世々お経と雲ども難忘しと雲て空に昇ぬ、其の程空に微妙の楽の音有りと見て夢覚ぬ、男哀に貴しと思て、弥よ信お発して法花経お供養し奉りけり、男の心難有し、譬ひ女の遺言有りと雲ふとも、勤に約お不違ずして後世お訪はむや、其れも前世の善知識にこそ有らめ、男の語るお聞き継て語り伝へたるとや、