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駿台雑話

妖は人より興るむかし駿府の御城に、うは狐といひ伝へし狐あり、人是に手巾おあたふれば、それおかぶりて舞しが、こへのみして形は見へず、たゞ手巾空に飜転して廻舞のやうお見せし程に、人々興に入けり、人手巾おあたふる時は受取る、形は見へねども、もたる手おものゝすりて通るやうに覚へて、其まゝ取てゆきける、わかき人々わざと渡さじとあらがふに、なにほど堅く持ても、とられぬといふ事なしと語るお、大久保彦左衛門聞て、我はとられじとて、手巾おもちてこれとれといふに取得ず、さていふは、さても無分別の人よ、あなおそろしとてにげさりぬとぞ、彦左衛門は、手に覚のある時に、わが手ともにきりておとさんと思ひつめけるお、狐さとりしなり、されば武士の心剛にして、一筋に直なるさへ其気焔になき程に、狐も妖おなしえず、まいて正人君子においておや、本より邪は正に敵せねば、正気にあふては、氷の日にむかふて忽に消るがごとし、西域の妖僧、伝毅おいのり殺すとて自から暴死し、武三思が妾、狄仁傑にあふて芸お施しえず畏縮せしにてしるべし、