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窻の須佐美追加

中川の家に伝て疱瘡の薬お製せられしに、狐の生胆お取て調ずる事なりけり、延宝の頃とや、今年は国に帰たらば薬お調ぜんと有ける春、君帰らせ給なば、十五以上の児の生胆おとらせ給なんと、誰とはなく国中にふれければ、子お持たる農商皆所お去て他国へ移り住、郡中人なきがごとし、やみがたくて其由おおほやけにもうつたへ、さてと雲なる由おこまやかにふれければ、やう〳〵にして民も帰りげり、是は狐のしわざよとて、其年は薬の沙汰もなくて事過けり、又の年になりて物頭の勇壮なるが申けるは、さきには狐のたゝりとて、薬おも調ぜられざりし、府下に居侍る狐の所為とて、数代調ぜられたる薬の絶なんも、君威の薄きに似候間、某に命ぜられ候へ、狐狩してさやうの類こらしめ申べしと申ければ、然るべしと有て、まだ其事の外にはしれざりけるに、ある朝第一の重臣中川何がし、口の事有とて物頭の許に来しかば、渇仰して亭に請じ、さていか様の御事にやと申しかば、わどのがむかしそゞろなりし事共、法の極にしがたき事共也、此書付お見て申披あるべしと一通お渡しければ、是お見るに、まだ若かりしより、年ざかりにてわかげにて有し、あやまちお書つゞけたり、ひらき終て雲やう、是は皆わかき頃の血気にて、しそんじたりしあやまちども也、隻今の事にてはなく候へども、申ひらくべき様なしと答ければ、さらば切腹候へとの命なり、とく〳〵と有ければ、かおよばぬ事なり、その用意いたすべし、しばらく御待候へとて奥に入て、此由お妻子に告ければ、驚入て思もよらぬ事にあひ、歎き悲事限なし、かくて早く事おへぬべし、沐浴の湯わかせよとて、其よそひするうちに、家のうちこぞりて、兎角の事はわかたず、絶入ばかりなりけるに、湯お焼く下部の、亭の庭お見やるに、塀の上にあまたの狐、かしらおならべて睨居たり、亭のかたおむきて、今や〳〵と雲に、供にありける士、手おふりていまだしと答けり、此よしお見付て、急ぎ主人にさゝやきければ、是お聞てさこそあらめ、此上は立出て使者お切捨、もし事違なば、其時こそ我ともかくもならんと独言して、今こそ自殺し侍らめとて、亭へ出ければばや其気お知けるか、悉く逃失けり、頓て此よしお申て、山々お狩して多く狐おとりければ、何事もなくてやみけり、