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視聴草
三集七
古狸怪
竜吟ずれば雲お生じ、虎嘯ば風お起す、自然の妙なりと雲べからず、援に文政十一年三月中頃、雲峰の家に久敷仕ひし老婦有り、やちと雲り、されども歳七十余りになりければ、名お呼人もなく唯ばゞ〳〵と雲れけり、然るにばゞが親族皆絶て、引取養ふ者もなく、懸るべきたよりも無れば、千秋お主人の家にすごせしと憐みおきける処に、其年の三月中頃より何の病もなきに気絶して、暫くいきも通はざりしが、一時程過ければ漸く心付けれども、身体自由ならずして、唯日増に食事進み、常に十倍して其間に餅菓子お好みければ、好みのまゝにあたへ、老の身のあすもしらぬいたはしさに、老婦の雲まゝに食物お好みに応じて与へし処、三度め食事の間に口の休む間なし、死に近き者なれば好みに随ひ、雲まゝに与へけり、手足不協に、夜に入れば心面白げに唄謡、毎夜々々絶ゆく事なく、時には唄ふ友来れり迚、何か高らかた独り言雲て咄し、又はやし唄ひておもしろく聞へけり、友の名などいゝて、夫より声高く小唄お夜半頃迄興に入り、酒に酔たるありさまにて、熟睡して朝迄静に寝むりけり、かゝる病人もあるものかと、松本良輔なる医師に脈伺はせしに脈絶てなし、少し有が如くなれども脈にあらず、奇なる病体にして薬法つかず、全く老もふつもりて心気お失ひ、血道とちて脈胳通ぜず、唯おぎなふの外なしとて、時々見舞おなして異病なりと申ける、かくて月日お経る間に、半身自然と減じ、後には骨出て穴明き、穴の所より毛のはへたる様なもの見ゆると看病人申ける、次第に暑に向ひ、しうき付日々腰湯など致しいたはりけれは、ばゞも其惡さお知たるや、しきりに礼お申けり、食お養ひ遣すには小女お付置、食物お好めば応じて与へ、主人も憐れみ遣しけり、比も秋立冬に移りければ、寒さにも向しゆへ著類まで取替、其著類お能々見るに、狸の毛色なる毛火敷、また其香ひ毛ものゝ匂ひ高く鼻おとおし、あやしき事に知られたり、夫よりして折々狸ばゞの枕元に出来ば、老婦の寝所の内に尾など長々出しだりとて、小女恐れ寄付ねども、次第〳〵に馴て、後はこわがる色なし、昨夜面白き事お狸が致したりとて、後々は小女も聊恐れず、夜々唄ふ文句お聞覚へ、其夜お待ぞおかしけれ、物になるれば初りの案ずるとは事違、かゝる事だに馴染れば、こはきお恐ず、却て今管は何お謡ふやと待もおかしきなり、ある夜狸の多く集りたるや、つゞみ笛太鼓三味線抔加へて拍子お能はやし、ばゞが大声にて唄おうたひ、さも面白きさま聞へける、かゝる事有けるより、小女今宵も又聞たしとて、夜に入お楽しみ待も、事馴ればこわきおかへて待そむべ也、心の持よふとこそ思はれける、またある夜ばゞ唄ひ初しかば、足音しておどりさもおもしろくぞ聞へけり、又ある夜ばゞが枕元に、何れよりか柿沢山に積置たり、ばゞにこれお聞しに、是は昨夜客が皆々様〈江〉厚き御世話に成とて、其御礼にあげよと申もらいたりと申ければ、人々あやしみ馬のふんにてもなきやと能々洗ひ、又皮お引ても割ても核出て真の柿也、皆小女に与へければ、恐れずあやしまずたべて仕舞けり、また其後切餅お隻枕元に積て有、是も小女に与へけり、されども恐れあやしまず、誰人の持来るにもあらず、狸のおくり物と見へたり、かゝる毛ものと雲ども、ばゞに憐みぬれば、またむくゆるの印おなし、鳥獣とても、仁にはむくゆる心有り、積善の家には余慶有、不積善の家には余快有と、憐遣したるおかんぜし哉、折々それとは雲ざれども、寸志お報るとの事、奇どく成ものとも思はる、全くばゞの死たるからお備に食しに体に入りたるなるべし、食殺したると雲にはあらざるべし、また一夜火の玉、手鞠の如く頻りに上りたり下たりして、さはがしき事鞠おつくが如く、少女側近く寄、是お見るに、赤きまりの光りなるものにて、手にも取たらば取そふなと手お出し、つかまんとせしに、忽ちきへて影もなし、是お明日ばゞに聞しに、ばゞ答て申は、昨夜女子の客有て、久しぶりにて鞠おつきたりと申たり、又一夜火の玉ばゞの上に頻りに飛上り飛下り面白見へたり、翌日是お尋るに、はごの子おつきたりと申けり、またある夜歌およみし故書たしとて、筆墨紙お乞ければ、少女与へしに、きゝもせぬ手にて歌書ぬ、其歌に、
朝貌の朝は色よく咲なれど夕は尽るものとこそしれ、是のばゞ歌の道も知らざるに、字はいろはだによみえず、かゝる死前に歌などよみ、筆取て書は狸の為す処也、又絵お書て小女に渡しけり、其絵もついに書たる事もなきに、蝙蝠に朝日お書、其上に讃お書たり、その賛に、日には身おひそめつゝしむかはほりの世おつゝがなく飛かよふ也、と認て小女に与ふ、皆古狸のなす事なるが、扠又食事は日増に進み、朝晩は八九膳、食後直に芳野団子五六本、直にきんつば三四十、又昼飯七八膳食し、其後もまた〳〵如此大食にて日お送りけれ共、病は聊も快復なく、ばゞの部屋の内に、一夜光明輝き、紫雲生じ、金花お降らし、三尊の阿弥陀仏顕れ、ばゞお連れて行様子に見ゆれば、小女は驚き走り来り、其次第お告ければ、雲峰の妻早く参りて見れども、ばゞは能寐て居たり、静にして聊何事もなし、小女夢にても見しかと尋れば、少しもまどろみは致し不申とて、色変じて恐人しなり、比は其年の十一月の三日の朝、昨夜の事お案じ雲峰の妻尋れば、老婦が枕元より古狸尾お出し、静に出て座中お廻り、細き戸の透間より出去りぬ、老婦は其儘息絶て終りけり、其後小女の夢に入て、古狸は世話になりたる礼お謝し、一つの金のむくの盃おさゝげてくれよと頼むと見へて夜は明にけり、今に其盃金盃に萩の彫したるあり、全く老婦の引取べき人もなく、かいほうして辱お報る印に与へしなるべし、不思議の事なる故、ありしまゝに書つるものならん、