[p.0392][p.0393][p.0394][p.0395]
兎園小説
五集
古狸の筆跡 好間堂
世に奇事怪談おいひもて伝ふること、多くは狐狸のみ、狸狢猫の属ありといへども、これに及ばず、思ふに狐の人お魅す事甚害あり、狸の怪はしからず、かくて古狸のたま〳〵書画およくすること、世人の普くしるところにして、已に白雲子の蘆雁の図は、写山楼の蔵にあり、良恕のかける寒山の画は、護園主人示されき、その縮本今載せて耽奇漫錄中に収めたり、これまさしく老狸の画けるものにして、諸君と共に目擊する所なり、しかるにその書おかけることお予嘗て聞けるは、武州多摩郡国分寺村名主儀兵衛といふ者の家に、狸のかきたりし筆跡あり、三社の託宣にて、篆字、真字、行字おまじへ、文章も違へる所ありて、いかにも狸などの書たらんと見ゆるものなるよし、これは狸の僧のかたちに化けて、此家に止宿し、京都紫野大徳寺の勧化僧にて、無言の行者と称し、用事はすべて書おもて通じたり、辺鄙の事故、有り難き聖のやうにおもひて、馳走して留めたりといふ、その後武蔵の内にて犬に見咎められて、くひ殺され、狸の形おあらはしゝとのことなりとそ、その頃、此事お人々にも語りしに、友人鹿山の同日の談ありとていへらく、予往年鎌倉に遊びしとき、川崎の駅に止宿し、問屋某の家に蔵する所の狸の書といふものお見たり、不騫不崩南山之寿と書けり、その書体、八分にもあらず、真行にもあらず、奇怪いふべからず、いかにも狸の書といふべし、問屋の話に、鎌倉の辺の僧のよしにて、其あたりお勧化せし事、五六年の聞なり、果は鶴見生麦の辺にて、犬に食はれしよし、此事はさのみ久しき事にあらず、予が遊びし十年も前の事なりといふ、此二条その年月お詳にせずといへども、今その墨跡の現にその家に存したれば疑ふべからず、
因に雲、五雑俎曰、狐陰類也、得陽乃成、故雖牡狐必托之女、以惑男子也といへり、吾邦にもむかし より、とかくに狐は婦人に化けたるためし多かり、しかるに狸はいかなる因縁かありけん、茂 林寺の守鶴お始めとして、いつも〳〵法師の姿になれるもおかしからずや、〈○中略〉 老狸の書画譚余
下総香取の大貫村、藤堂家の陣屋隷なる某甲の家に棲めりしといふ、ふる狸の一くだりは、予もはやく聞きたることあり、当時その狸のありさまお見きといふ人のかたりしは、件の狸は、彼家の天井の上におり、その書お乞はまくほりするものは、みづからその家に赴きて、しか〴〵とこひねがへば、あるじそのこゝろお得て、紙筆に火お鑽りかけ、墨お筆にふくませて、席上におくときはしばらくしてその紙筆おのづからに閃き飛びて、天井の上に至り、又しばらくしてのぼりて見れば、必文字あり、或は鶴亀或は松竹、一二字づゝお大書して、田ぬき百八歳としるしゝが、その翌年に至りては、百九歳とかきてけり、是によりて、前年の百八歳はそらごとならずと、人みな思ひけるとなん、されば狸は天井より折ふしはおりたちて、あるじにちかづくこと常なり、又同藩の人はさらなり、近きわたりの里人の日ごろ親みて来るものどもは、そのかたちお見るもありけり、ある時あるじ戯れに、かの狸にうちむかひて、なんぢ既に神通あり、この月の何日には、わが家に客おつどへん、その日に至らば、何事にまれ、おもしろからんわざおして見せよかしといひにけりがくて其日になりしかば、あるじまらうどらに告げていはく、其郷に戯れに狸に雲々といひしことあり、さればけふのもてなしぐさには、隻これのみと思へども、渠よくせんや、今さらに心もとなくこそといふ、人々これおうち聞きて、そはめづらしき事になん、とくせよかしとのゝしりて、盃おめぐらしながら、賓主かたらひくらす程に、その日も申の頃になりぬ、かゝりし程に、座敷の庭忽広き堤になりて、その院のほとりには、くさ〴〵の商人あり、或は葭簀張なる店おしつらひ、或はむしろのうへなどに物あまたならべたる、そお買はんとて、あちこちより来る人あり、かへるもあり、売り物のさはなる中に、ゆでだこおいくらともなく檐にかけわたしゝさへ、いとあざやかに見えてけり、人々おどろき怪みて、猶つら〳〵とながむるに、こはこの時の近きわたりにて、六才にたつ市にぞありける、珍らしげなき事ながら、陣屋の家中の庭もせの、かの市にしも見えたるお、人みな興じてのゝしる程に、漸々にきえうせしとぞ、是よりして狸の事おちこちに聞えしかば、その書お求むるものはさらなり、病難利欲何くれとなく、祈れば応験ありけるにや、縁お求めて詣づるものゝおびたゞ敷なりしかば、遂に江戸にもそのよし聞えて、官府の御沙汰に及びけん、有司みそかに彼地に赴き、おさ〳〵あなぐり糺しゝかども、素より世にいふ山師などのたくみ設けし事にはあらぬに、且大諸侯の陣屋なる番士の家にての事なれば、さして咎むるよしなかりけん、いたづらにかへりまいりきといふもありしが、虚実はしらず、是よりして、彼家にては紹介なきものお許さず、まいて狸にあはする事は、いよ〳〵せずと聞えたり、これらのよしお伝聞せしは、文化二三年のころなりしに、このゝちはいかにかしけん、七十五日と世にいふ如く噂もきかずなりにけり、〈此ころ、両国広〓路にて、狸の見せ物お出だしゝとありしに、彼大貫村なる狸の風聞高きにより、官より禁ぜられしなり、〉C 狸利用