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窻の須佐美追加

薩摩の猟師にや有けむ、山路お通るとてがけ道おふみはづし、谷底へ陥り、幸にあやまちはせざりけれど、絶倒しけるお、大なる熊出て、掌お口に当てすりければ、おのづから嘗めけるが、甘き事限りなし、さて有て熊先に立てゆきけるに付て住ほどに、窟の中に入ぬ、草お置てその上におらしめ、いたはる体に見へ、時々掌お出候て舐らするに、飢る事なかりけり、明日帰べきと思ひ、人に暇こふ如して出けるに、熊はなごりおしげに見へてのぼるべき路まで案内して別れ去けり、此者不仁なる者にや、其のち鉄砲お持つゝ、かの道よりつたひ下りて、かの窟にゆき、熊の臥居たるお打ころし、胆お取て奉行所に捧しに、そのしだいお尋られて、中将綱久朝臣聞たまひ、獣さへ人の難義お救ひいたはりしに、其恩お不知のみならず、是お害せしとて、人にして獣におとれり、かゝる者は世のみせしめなりとて、其窟の前に磔に行れけり、