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北越雪譜
初編上
熊捕
越後の西北は、大洋に対して高山なし、東南は連山巍々として、越中、上信、奥、羽の五け国に跨り、重岳高嶺肩お並べて、数十里おなすゆえ、大小の獣甚多し、此獣雪お避て他国へ去るもあり、さらざるもあり、動ずして雪中に穴居するは、熊のみ也、熊胆は越後お上品とす、雪中の熊胆はことさらに価貴し、其重価お得んと欲して、春暖お得て、雪の降止たるころ、出羽あたりの猟師ども、五七人心お合せ、三四匹の猛犬お牽き、米と塩と鍋お貯へ、水と薪は山中在るに随て用おなし、山より山お越、昼は猟して獣お食とし、夜は樹根岩窟お寝所となし、生木お焼て寒お凌ぎ、且明しとなし、著たまゝにて寝臥おなす頭より足にいたるまで、身に著る物悉く獣の皮おもつてこれお作る、遠く視れば猿にして顔は人也、金革お衽にすとは、かゝる人おやいふべき、此者らが志所は、我国〈○越後〉の熊にあり、さて我山中に入り、場所よきお見立、木の枝藤蔓お以て、仮に小屋お作り、これお居所となし、おの〳〵犬お牽き、四方に別て熊お窺ふ、熊の穴居たる所お認むれば、目幟(めしるし)おのこして、小屋にかへり、一連の力お併て、これお捕る、その道具は、柄の長さ四尺ばかりの手鎗、或は山刀お、剃刀のごとくに作りたるもの、鉄炮山刀斧の類也、刃鈍る時は、貯へたる砥おもつて自研ぐ、此道具も獣の皮お以て鞘となす、此者ら春にもかぎらず、冬より山に入るおりもあり、〈○中略〉
さて熊お捕に種々の術あり、かれが居所の地理にしたがつて、捕得やすき術おほどこす、熊は秋の土用より穴に入り、春の土用に穴より出るといふ、又一説に穴に入りてより穴お出まで、一睡にねむるといふ、人の視ざるところなれば信じがたし、
沫雪の条にいへるごとく、冬の雪は軟にして、足場あしきゆえ、熊お捕は、雪の凍たる春の土用まへ、かれが穴よりいでんとする頃お、程よき時節とする也岩壁の裾、又は大樹の根などに蔵蟄たるお捕には、圧といふ術お用ふ、天井釣ともいふ、その制作は、木の枝藤の蔓にて、穴に倚掛て、棚お作り、たなの端は地に付て、杌お以てこれお縛り、たなの横木に柱ありて、棚の上に大石お積ならべ、横木より縄お下し、縄に輪お結びて穴に臨す、これお蹴綱といふ、此蹴綱に転機あり、全く作りおはりてのち、穴にのぞんで玉蜀烟草の茎のるい、熊の悪む物お焚、しきりに扇て烟お穴に入るれば、熊烟りに咽て、大に怒り、穴お飛出る時、かならずかの蹴綱に触るれば、転機にて棚落て、熊大石の下に死す、手お下さずして熊お捕るの上術也、是は熊の居所による也、これらは樵夫も折によりてはする事也、
又熊捕の場数お踏たる剛勇の者は、一連の猟師お、熊の居る穴の前に待せ、己一人ひろゝ蓑お頭より被り、〈ひろゝは山にある草の名也、みのに作れば藁よりかろし、猟師常にこれお用ふ、〉穴にそろ〳〵と這入り、熊に蓑の毛お触れば、熊はみのゝ毛お嫌ふものゆえ、除て前にすゝむ、又後よりみの毛お障らす、熊又まへにすゝむ、又さはり、又すゝんで、熊終には穴の口に至る、これお視て待かまへたる猟師ども、手練の鎗尖にかけて突留る、一鎗失ときは、熊の一揆に一命お失ふ、その危お踏で熊お捕は、僅かの黄金の為也、金欲の人お過事、色欲よりも甚し、されば黄金は道お以て得べし、不道おもつて得べからず、又上に覆ふ所ありて、その下には雪のつもらざるお知り、土穴お堀て蟄るもあり、然れどもこゝにも三五尺は吹積也、熊の穴ある所の雪には、かならず細孔ありて管のごとし、これ熊の気息にて雪の解たる孔也、猟師これお見れば、雪お堀て穴おあらはし、木の枝柴のるいお穴に挿入れば、熊これお掻とりて穴に入るゝ、かくする事しば〳〵なれば、穴逼りて、熊穴の口にいづる時、鎗にかくる、突たりと見れば、数匹の猛犬いちどに飛かゝりて齧つく、犬は人お力とし、人は犬お力として殺もあり、此術は椌木にこもりたるにもする事也、