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江戸名所図会
十一
中野宝仙寺〈当寺に、享保十四年、交止国より貢献する所の馴象の枯骨あり、〉
馴象之枯骨
享保十三年戊申、交止国より、鄭大威なる者、広南に産るゝ所の大象、牝牡二頭お率い来て、本邦に貢献す、〈林信言の事物権輿には、大泥国より来るとあり、牝象は同申年九月十一日長崎に於て弊せり、〉同年六月十三日、長崎に著す、〈同十九日上陸す、象奴二〉〈人日沈薮沈綿、訳官二人日李錫明広南陳阿卯等各従びきたる、〉翌十四年己酉三月十三日、崎陽お出て、四月十六日、大坂に至り、同二十六日、伏見より京花に入、同二十八日、禁掖に朝して天覧お蒙むる、〈爵位なくして禁闕に参入の例なければとて、獣類といへ共、従四位に叙せられ、広南従四位白象と称へられたりといへり、〉同五月二十五日、江戸に迎へ給ひ、同二十七日、営中に於て上覧あり、其後中野に象厩お建て、是お飼せられたりしが、二十余年お歷て、完延の頃弊せりといふ、〈当寺に存するものは、其牡象の枯骨なり、〉
牡象〈七歳〉総身灰色にして、頭の長さ二尺七寸、〈頭は俯さす、又顧廻する事あたはず、〉鼻の長さは四尺程、〈或は三尺三寸とも雲〉同囲一尺五寸、〈末の方にては六寸許ありといふ、鼻孔二つ、端ふかく凹にしてよく開闔す、中に小き肉爪ありて、よく針お拾ひ芥子おつまむ、水お飲、酒お啜るにも又鼻お以てし、食する時も鼻お以て捲入る、一身の力は皆悉く鼻にあり、起て行んとするときも先鼻お以て地お柱へて後、あしお延す、口は頤にかくれて地お去事遠く、常にはみゆる事なし、〉牙の長一尺二寸程〈或は一尺四寸、囲は元の方にて一尺六寸計ありといへり、〉眼の長さ三寸、〈或は一寸五分、形篠の葉の如と雲、〉耳の幅八寸余、〈或は一尺三寸とも、形は蝙蝠の翅、又銀杏葉の形に似大りともいふ、〉胴の長さ七尺四寸、同囲一丈、背の高さ五尺、〈或は五尺七寸ともいへり〉足の長さ二尺二寸、同囲一尺五寸、〈或は三尺五寸、囲二尺五寸ともいへり、足の形は円柱の如にして、指なく爪は五枚ありて、栗の形に似たりといふ、総身ふくよかに、擁腫すれども、峻嶺にのぼり羊腸お下るに、電の如く、深き水お渉る事捷く、其性能人に馴て其意お解す、故に象奴たる者、其頭すぢに跨り、鉄釣お以て釣、進退曲折左右すといふ、〉尾の長さ三尺三寸、〈或は二尺七八寸とも、形牛尾に似たりとなり、〉
牝象〈五歳〉総身灰色にして、頭の長さ二尺五寸、鼻の長さ二尺八寸、胴の長さ五尺計、同囲八尺六寸、背の高さ四尺七寸、〈或は四尺なりと〉牙の長さ五寸程ありて、其余は牡象に等しといへり、〈此牝象は長崎にありし頃弊したり、江戸へ来りしは牡象のみなり、〉飼料、〈一日の間に新菜二百斤、篠の葉百五十斤、青草百斤、芭蕉二株、根お省く、大唐米八升、其内四升程は粥に焚て冷し置て是存飼、湯水〉〈一度に二斗計〉〈あんなし饅頭五十、橙五十、九年母三十、又折節大豆お煮冷して飼ふ事あり、青草の中、殊に俗間角か取草と称するものお好みて食ふ、青草なき折には、籾お茎穂ともに飼、或は藁大根のたぐひも食ふとなり、又好んで酒お飲といへり、〉