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古事記伝
十七
美智(みち)の皮(かは)、書紀に海驢と作て、此雲美知とあり、釈に海馬也と注し、〈海馬は漢名なり、本草に、陳蔵器曰、海驢海馬等皮毛在陸地、皆候風潮、則毛起、〉口決には、海驢之皮在陸、而潮満則自起毛とのみ雲て、其物のさまは雲ず、建長八年百首に、衣笠内大臣、我恋は海驢の寐流(ねなが)れ寤(さめ)やらぬ夢なりながら絶やはてなむ、〈夫木集に出づ〉紀の国人の雲く、今紀の海に阿志加と雲物あり、其処にて昔より字には海馬と書来れるよし、日高郡の海中に阿志加島と雲島のあるに、年毎の秋冬のころ多く来て岩上に睡り、又波上に浮びながらも熟睡て、凡て寤(さむ)ることの遅き物なり、大きなるは長さ一丈許なるもあり、足は無くて水掻(みづかき)の如くなる物あり、此物西国の海にもあるなり、和名抄に葦鹿と雲物お載て、本文未詳としるせり、思ふに是海驢なるべしと雲り、〈或人は、阿志加は本草綱目に海獺とある物なりと雲り、〉或書には、山東志曰、海驢出文登海中、状如驢、常於秋月登島産乳、其皮製為雨具、水不能潤、今按に海中に登騰(とヾ)と雲物あり、岩屋の内に上り、よく睡る物なり、皮は馬具に用ふ、其首馬に似て、大さは小馬ばかりなり、これ海驢なるべし、陸奥松前蝦夷、又国々の海辺にも希にあるなりと雲り、〈本草綱目に、東海島中出海驢、能入水不濡、〉又或人の雲く、今も北海に海驢あり、其皮潮満れば柔に、潮干れば枯る、今も敷皮にするなりと雲り、右の説どもの内、何れか正しく美智に当るべき、〈かの細の国人の雲る阿志加と、或書に雲る登騰(とヾ)とは、一つ物の地によりて名の異なるか、はた別物か、なほよく尋ぬべし、相遠からぬ物とは聞えたり、又近き年西国の海にて捕れりとて、水豹と雲物お観せ物にしたる、長さ三尺許ありて、阿志加のたぐひなる物と見えたり、こは己正しく見たる物なる故に雲なり、水豹と雲名は新にみだりに著たるなるべければ、依るに足らざることなり、〉今世にも美智と雲名の遺れる地は無きにや、尋ねて定むべし、