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江戸旧事考

捕鶴者の刑 小宮山妥介
徳川氏のとき、庶人鶴お捉ることお禁じ、犯すものは極刑に処せしといふこと、世人の普く知る所なれども、其禁条は記錄に曾て概見せず、偶〻厳有公の生母七沢氏の父のことあるお以て、僅に其事あるお徴するのみなり、されど物氏の政談に、鶴取お張付に掛ると雲は、大形は太閤秀吉公などより起りたることなるべし、年始に禁裏へ鶴献上と雲ことあるなり、重き取八になると見へたり、されども非法の刑なり、厳有院様御袋様の御事あれば、彼御代に此法は停止あるべきことなりしお、御老中などの了簡の付ぬなるべし雲々とあれば、其頃までは其律猶存せるなり、按ずるに、此禁は享保以降漸くこれお弛められ、完保に律お定めらるゝに至て、是等の例は全く刪除かれしにや、其故は享保三年七月の令に、御拳場並御留場鳥殺生御制禁之儀、依致中絶候鳥無之、御用に難立に付、今年より子年迄三け年之内、左之通被仰出候事、一鶴白鳥菱喰雁鴨生鳥塩鳥、三け年之内は音物並振舞之料理に遣ひ候事、無用に候、此外之鳥は音物料理等に遣ひ不苦候雲々とあり、此令に白鳥雁鴨と並称せし趣、已に其等差なきに似たり、又其律お刪除かれしにやと思ふことは、稍々近代のことなれど、左の一例あり、
天保十三年六月勘定奉行戸川播磨守掛りにて
武州下小合村百姓
善五郎
同上小合村百姓
長五郎
下総国金町村百姓
要 吉
右三人之者共儀、鳥殺生可致旨発意に一同同意致し、武州猿け又村は御留場之段作弁、同村 耕地へ黐縄お張、鶴殺生致し、其上善五郎長五郎外一人被召捕候趣承り、一旦欠落致候始末 不届に付中追放、
下総国柴又村百姓 常右衛門
右之者、武州下小合村善五郎外二人、御留場内にて殺生いたし候鶴と作存買取売八候段不 届に付、売八候代金銭並所持致候肉共取上げ、江戸十里四方追放、 右の裁判お見るに、隻留場に於て殺生したるまでの刑にて、鶴お捕りしことは別に其咎め なし、是お以て鶴お捕るものお極刑に処すること、近代には其例なきことお知るべし、然れ ども民間に於ては、鶴お捕ること重き禁令と知て、畏れて敢て犯すものゝなかりしは、蓋し 旧令の余烈なるべし、
天保元年に幕下の士伊藤主膳、柳島にて鶴お銃殺したる罪にて、永預けとなりしとき、其 宣告には雁となり、是も鶴お殺したることお憚りて、雁と申立し故、其まゝ雁輻申渡せし なるべし、