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黒鳥考
天保十五年二月、我亡父〈○本居内遠父大平〉の教子なる、伊予国宇和郡野田村にすめる、二神重兵衛永世といふより、黒鳥の塩漬にしたるおおくりおこせたり、此あたり〈○紀伊〉には見聞知らぬ鳥なれば、人々にも見せめではやすに、海辺などにおり〳〵行通ふ人のいへるは、こは本国にて磯鵯(いそひよ)と浦人などのいふ鳥の雌にいと能く似たり、されどそは足短きお、是は足いと長くて異なりといへり、まづ黒鳥といふ名、すべて鳥の黒きおいふやうなれど、さにはあらで一種の鳥名なり、土佐日記正月廿一日の所に、〈○中略〉其頃も黒鳥と雲名あり、〈○中略〉亡父は教子なる小原良直畔田伴存は、物産のまねびおたてゝする人なれば、もたせやりて見せたるに、良直はこれは秧鶏(くひな)の属の形小なるにて漢名未考へず、四国九州辺にありて、くろ鳥といひて外に名なし、毒はなきものなり、痔疾などに用いる事あり、土佐日記和名抄などにも、名は見えたれど、形状おいはざれば、それぞとは定め難しといひおこせたり、伴存よりも、これは漢名秧鶏なり、本草に肉味、甘温無毒、治蟻瘻とあり、四国の産の黒烏はひくひなにて、今塩に漬たる故さは見えねど、生る時は、これよりやゝ足赤しと、いひおこせたり一〈○中略〉さて此鳥南方暖国にのみありて、海辺にすむと見ゆれど、うちまかせたる水鳥にてはなし、水面にはおりたゝずとおぼしくて、足に水かきはなし、〈○下略〉