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有徳院殿御実紀附錄
十六
完保のはじめ、冷泉大納言為久卿参向ありし時、霊元上皇うち〳〵御所望ありしは、都鳥の事古説分明ならざれば、叡覧有たしとなり、公〈○徳川吉宗〉聞召れ、都烏は墨田川にのみすめるものゝやうにいひ伝ふるといへども、実は今も彼所に多く群いる鴎の事おいひしなるべし、鉄砲にて打とり、其さまおよく〳〵うつして、為久にみすべしと仰ありしかば、小納戸松下伊賀守当恒うけたまはりて、たゞちに墨田川にゆき、綾瀬のほとりにて、大小の鴎ふたつ打取て来りしお、岡本善悦豊久〈同朋格〉に、其真おうつさせ、為久卿の旅館に賜りぬ、其後成島道筑和歌の事により、かの旅館にまいりしついで、家司中川右近清基に逢て、かの都烏はその日たゞちに鉄砲にて打ころし、露たがはず写して進らせられしなりとかたりしかば、為久卿はさらなり、同じく参向ありし頼胤卿おはじめ、つきそひきたりし京人までも、これおきゝ舌おふるつて、武備おごそかなるお畏れしありさまなりとぞ、のち為久卿、巨勢大和守利啓について、謝恩の和歌おたてまつらる、
都鳥うごくばかりのうつし絵にこめけむ筆の心おそしる