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碩鼠漫筆

稲負鳥考〈○中略〉
古今集秘註巻四雲、いなおほせどりとは、万葉に稲負烏とかけり、是にあまたの儀あり、一は雁(○)、一は、山鳥、一は鵇(たう/○)、一は𧜣(くひな/○)一は雀、一は鶺鴒などお雲へり、此中まづ雁と申事は、今の歌に、〈春村曰、我門に雲々の歌お指たるなり、〉各別の鳥に読合たれば、儀にも協はず、次に山鳥とは、稲お負へる姿ありと申せども慥ならず、次に鵇と申事は、鵇につきて稲負(たふ)のひゞき有に依て也、家隆の歌に、秋の田の稲負烏のこがればも木の葉催す露やそむらむとあるは、鵇と聞えたり、此歌につきて、人のそれかと知侍るにや、又はくひなと申説もあり、此鳥の姿山鳥の尾の如にて、稲お負たる心也、故に雲伝ふ、又雀と申事は、狭衣に稲葉の風も耳近くは聞ならひ給はぬに、稲負鳥のおとなふも、さま〴〵さまかはりたる心ちして、心細げなりと侍るは、雀かと申せり、古歌にも、雀てふ稲おほせ鳥のなかりせば門田の稲お誰かおほせむ、狭衣の詞は此歌おおもへるか、〈○中略〉いまだ必定の説見えねば、猶当否お論ふべし、〈○中略〉稲負(たふ)のひゞき近ければ、鵇(たう)なめりといへるなどは、仮字違おもおもはざる物にて、無下に拙き謬説なりけり、此他雁なり、馬なり、田夫なりなどは、論ふまでもなかるべし、かゝれば此鳥延喜の頃は、夫と慥にしられけむお、天暦頃には知る人なくて、順朝臣も詮方なければ、たゞ和名おのみ載られたりしなるべし、奥儀抄袖中抄おはじめ、後々の諸説にも、何ともしられぬ鳥なりとあるは、中々に心にくし、されどさてのみ雲てあらむには、かく取出たる所詮なければ、僻按おもしるしそふべし、按ふにこは旧説の中なる鵇(たう)といふに従ふべし、鵇は和名豆岐なれど、後には止伎と訛り、〈今も猶然呼べり〉又一名お太宇と呼べり、此鳥は水禽の属にて、〈和名抄の序に稲負鳥お山鳥とあるは、推当にいはれたるなるべし、かれに泥みて今水禽といふお疑ふべからず、〉晩夏より秋に至り、水辺の田野にすみ、宵暁によく飛翔りつゝなく、其声かゝと叩くに似たり、大和物語に叩くと詠るも、則是お雲へる事しるかり、又稲負鳥と名づけし義は、此鳥の羽色は所謂とき色にて、殊に其焦羽(こがれば)は〈俗に雲焦茶色なり〉稲の赤みたる色したるおもて、田野といひ、時節といひ、束ねたる稲お負懸たるさましたれば、しかは名に負へるにこそあめれ、かゝれば諸説区々なりといへども、鵇お以て正説とすべし、〈○中略〉猶鴇(つき)の異名と決むべき本拠は、彼大和物語のみならず、完喜元年八月十九日の明月記に、此三四日鶺鴒〈小鳥〉来鳴、炎暑雖如盛夏、時節自至歟、鷰不見、古今歌稲負鳥有説々、〈事不切事也〉予〈○藤原定家〉用此小鳥之説、家隆卿多捨(たふ)〈赤羽用矢鳥也〉見之由披露雲々、未知其証、其鳥尋常近辺不可来、此鳥来鳴之時、賓雁必計会、猶協此鳥之歌也、隻以節物慰心緒故記之、〈按に多捨の捨は誤字にして、疑ふらくは多捕(たふ)などなるべし、赤羽用矢鳥也とあるにて、おのづから明らけし、〉と見えたる鶺鴒の説は、京極黄門〈定家卿〉こそうけばりて雲はれたれ、〈余材抄にも此卿の説とて、鶺鴒としたる事、上件にあり合せみるべし、〉こは信がたき事既に弁たるが如し、壬生二品〈家隆卿〉は所拠ありて、鴇と治定せられしなるべし、されば卿の自詠にも、秋の田の稲負鳥のこがれ羽も木葉催す露やそむらむ、〈壬二集上、及夫木抄秋三に見えたり、〉又色葉和難巻一に、清少納言が枕草子に、稲負鳥はたうと雲へり、昔雁に稲お負たり、秋返さむと雲て、さてやみぬ、是によりて秋になれば稲負(たふ)と鳴て是おこふ、雁は又かり〳〵と鳴也、〈按に此事、今本枕草紙にに見えず、もしさる異本もありけるにや、〉家隆義雲々、或雲、鵇とは、常世国より雁にまじりて来る鳥也、其毛中に稲お一穂はさみて此国に落す、是お取てうえはじむと雲事あり、扠稲負鳥と雲也と見ゆるも、雲ふにたらぬ俗説ながら、彼郭公が沓代乞ふと雲る類にて、やゝ古くより雲ふ事と見ゆれば、稲負鳥は鴇なりといふ一証に備ふべし、又砂石集巻五、連歌事とある条に、彼入道、〈按に前条には束入道と見えれれば、東中務丞胤行入道素暹か、或は同男下野守行氏入道素道か考ふべし、此人々は倶に勅撰にいりし作者なり、〉そのかみ毘沙門堂の連歌の座に有けるが、うす紅になれる空かなと雲句、難句にて多く、かへりて興もなかりけるに、あまとぶやいなおふせ鳥のかげ見えてなど見えたるは、何れも鴇なる明文なり、〳〵猶この鳥の鳴声おも聞とめ、形状おもよく見とめて、稲負鳥は鴇といふが正説なる事お了知すべし、