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梅園日記

勧学院雀
勧学院雀囀蒙求といへること、宝物集、八幡愚童訓等に出たり、富樫の舞、頼政の謡にもいへり、曾我物語にも、勧学院の雀とかや申ければ、などあれば、久しき諺なり、日本国風、勧学院雀の一条に、閑窻倭筆お引て雲、雀とは、勧学院に仕れて、水お汲、薪お運ぶ小女の名也、其女此勧学院にて、朝夕学問する人の蒙求お誦お聞て、常に口まねおする故に、雀の名にたよりて囀といふ也、按に勤励読書の声お、雀も聞覚えて、王戎簡要などゝ囀やうに、きかるゝなるべし、〈以上日本国風〉按ずるに、閑窻倭筆に、又雲、古来蒙求抄の題注にいへる、蒙求の作者の李浣がつかふ女の名お雀といふ、それまでが、此蒙求お囀と雲とあり、甚非也〈古来の抄とは蒙求聴塵にや、彼書に此説見えたり、〉とあり、今考るに、蒙求の開巻に載たる、李良が薦蒙求表に、李浣撰古人状跡、編成音韻、名曰蒙求、浣家児童、三数歳者、皆善諷誦とあり、浣家児童雲々おつゞめて、浣が家の児童は蒙求おさへづると、ふるき諺にいひしなるべし、唐人などのものいふおば、さへづるといへれば也、さるお後に浣が家お、勧学院と誤り、さへづるといへるより、児童お雀と誤たる也、又宋の方岳が詩に、黄鸝お教得て書お読ことお解せしめ、能蒙求中の一句お記せしむと、いへる句などおも混じたるにや、〈方岳秋崖集独立詩に、村夫子挟兎園冊、教得黄鸝、解読書、能記蒙求中之一句、百盤嬌託可憐渠、自注に、蓋俗以其声為呂望非熊、此詩こゝに早く伝はりしなるべし、月舟が鶯誦蒙求詩、翰林五鳳集に見えたり、〉されば倭筆に引たる古抄の説、やゝ是に近しといふべし、