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閑田耕筆

慈悲心鳥(○○○○)といふものは、下野の黒髪山にあり、〈日光山なり、此鳥の形状鵯のごとく、羽は鼠色にして尾長く、足と觜は黒し、声勝れて高く、夏の気候に入ば、昼夜ともに諦と、百井塘雨筆記にしるせり、此人は足跡天下に周さ人なり、〉さるに其宮に仕まつる鵜川氏、はからず比えの山にても聞つけしと語られしかば、柏原瓦全なる人、彼ますほの薄おとひにまうでし登蓮法師が昔にならひて、やがてふりはへて比えにのぼりしに、比は水無月計、唯老の鶯駒鳥などの声のみなりしかば、口おしながら諸堂ども拝みめぐり、暑さに汗あへて、こうじたれば、よしや今はとて下りしに、水呑みと雲人舎りのほどにて、ほのかに聞つけたり、あはやと心おしづめ、耳お澄すに、十声計清らに鳴つゞけたるうれしさ、いはんかたなかりしといへり、〈○中略〉比えに詣る人は、心にかくべきことぞ、又仏法僧(○○○)といふ鳥も、同じく鳴声につきて名付たる類也、高野山に名高きは大師の性霊集に見えしが本也、〈○中略〉又高野山通念集に、仏法僧の鳥のことは、霊屈の閑林の内にて、暁がだ一夏の間諦と也、雄、仏法となけば、雌、僧と声おあはす也と見ゆとかや、此二書は予〈○伴蒿蹊〉いまだみねども他の説による、又古歌にもよめり、吾国はみのりのみちの広ければ鳥も唱ふる仏法僧哉、またうきことおきかぬ太山の鳥だにも鳴ね、はたつなみつのみのりに、また此ごろ或人の筆記お見れば、霊元法皇の御製御集に有とかや、御詞書、仏法僧の巣おつくりたるお見て、声おきゝ姿おいつのよにかみん仏法僧のありし梢に、此巣はいとめづらし、いづこより採きて叡覧に入けるにや、京ちかくにては松尾によめり、是につきて一話あり、近古に京師に名ある医師お夜更て迎ふる者有、かねて相識る人の名おいひたれば、速に輿に乗しお、頓て物にて押つゝみ、数人囲〻ていづこともしらず勾引し行ぬ、さていと山深き所の大なる家の内に舁いれ、家あるじとおぼしき者の金瘡お療ぜしめ、薬おこひて後あつく謝物おあたへ、また先のごとくかこみてかへしたり、いかさまにも賊の隠れたる所とおぼしく、ものおも得たるからに、黙してはあられず、官に訟たれば、時の京兆尹板倉侯、其所のさまお尋給へども、東西おもわきまふる所なかりし旨、上の件おのべけるが、唯一つめづらしとおぼえしは、仏法僧と鳴鳥有しとまうす、侯さては松尾成べし、松尾に此鳥およめる古歌ありとて、速に吏おつかはして、彼山深くもとめさせ給ひしかば、はたして賊の首領居りしと也、これは新六帖に、光俊、松尾の峯静なる曙にあふぎて聞ば仏法僧諦、といふ歌なるべし、今は彼山にて聞たるといふ人なし、絶たるにや、又下野那須の雲巌寺に此烏あり、及び慈悲心鳥もありと、播磨玉拙法師話せり、