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雲錦随筆

讃岐国阿野郡白峯山には、崇徳天皇の御廟御陵等あり、〈○中略〉一年遊歷の時(おり)から此に逗留して、寺記及び種々の説話お聞り、此時郭公の落文といへるお、里人より得たり、其品樫あるひは栗などの葉の如きお以て、堅く巻たるが、何さま文の形せしものにして奇なり、按ずるに彼蓑虫の如き虫の、木の葉お巻て中に蟄し巣となしたる者ならんか、爾有お時鳥の餌と為んとて咥へて飛行、遏つて落せる者なるべく思へども、里人の雲く、往古崇徳天皇此国に左遷の時、年毎の夏、蜀魂来つて諦音づるゝお聞し召、頻りに都の事お思ひ出し給ひて、歎かせ給ふ余り、諦ばきく聞ば都ぞ慕はるゝ此里すぎよ山杜鵑、と御製ありしより、子規音おとゞめて更に諦ず、翌る年の夏よりして、年毎に来ると雖も声お発さず、音づれ奉りし印にして、此文お落し置ける、其例により今も猶御廟の辺には、必ず夏毎には許多ありと語れり、御いたわしくも最哀れなる物語なり、然れども此説に似たる事、佐渡国なる順徳帝にもありて、其是非おえらず、因に雲、南都の二皓亭故松寿、〈奈良人形師〉一年の夏の夜、杜鵑一声発せしと思ふと、其儘向ふなる蔵の壁に崎(あたつ)て死し地に落たり、壁白くして鳥の目に見紛ひしにや不便なりと、頓て其地に至つて、死せし鳥お携上(とりあげ)見るに觜お堅く閉たり、父なる人是おひらき見るべし、必ず血お含めりと有に、觜お幸ふじて開きたるに、鮮血火しく出て膝お汚せり、諦て血お吐といへるは、是等の事ならんかと語られし、