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今昔物語
二十四
忠明治値竜者語第十一今昔天皇の御代に、内裏に御ましける間、夏比冷(すヾみ)せむとて、滝口共数八省の廊に居たりける程に、徒然なりければ、一人の滝口有て、此徒然に酒肴お取りに遣し侍らばやと雲ければ、他の滝口共此お聞て、糸吉き事也、早く取りに可遣と口々に責ければ、此滝口従者の男お呼て遣つ、男南様に走て行ぬ、今は十町許も行ぬらむと思ふ程に、空陰て夕立しければ、滝口共物語などして廊に居たる程に、雨も止み、空も晴ぬれば、今や酒持来ると待けるに、日の暮るまで行つる男も、不見りければ、去来返りなむとて、皆内裏に返ぬ、此酒取りに遣つる滝口は、奇異く腹立しく思へども、雲甲斐無くて、共に返て本所に有るに、此遣つる男、其夜も不見りければ、希有の事かな、此は隻の事には非じ、此男は道にて死たるか、若は重き病お受たるかと、終夜思ひ明して明る遅きと、朝疾く家に匆ぎ行て、先づ昨日此男遣し事お語るに、家の人の雲く、其男は昨日来たりしに、死たる様にて彼こに臥たる、何にも不雲て、国として臥たるぞと雲へば、〈○中略〉後人心地に成畢にければ、此は何なりつる事ぞと問ければ、男の雲く、昨日八省の廊にて、仰お承りて、急ぎ美福下りに走り候しに、神泉の西面にて、俄に雷電して夕立の仕りし程に、神泉の内の暗に成て、西様に暗かり罷りしに、見遣たりしに、其暗かりたる中に、金色なる手の鑭と見えしお、急と見て候しより、四方に暗塞がりて、物も不思して侍しお、然りとて路に可臥き事にも非りしかば念じて、此殿に参り著しまでは、仏に思ひ侍り、其後の事は更に思え不侍と、〈○下略〉