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源平盛衰記
十八
文覚清水状天神金事
文覚は〈○中略〉南海道より漕廻て、遠江国名田沖にぞ浮たる、折節黒風俄に吹起、波蓬莱お上ければ、こはいかヾせんと上下周章騒けり、〈○中略〉風は弥吹しぼり、船耳(ふなばた)に浪越ければ、今は櫓お取、楫お直すに及ず、舟底に倒伏て、音お揚て喚きけれ共、文覚は泣もせず、起もあがらず、〈○中略〉良有て這起、余に歎くが不便なるに、波風やめて見せんとて、舟の舳頭に立跨て、奥の方お睨へて、竜王や候、〳〵いかに海竜王(○○○)共はなきか、曳曳とぞ呼たりける、〈○中略〉文覚は念珠押捻、大の声のしはがれたるお以申けるは、海竜王神も慥に聞、此船中には大願発たる文覚が乗たる也、〈○中略〉吾船おば手に捧、頭に載ても行べき所へは送べし、さまでこそなからめ、浪風お発ず条、あら奇怪や〳〵、忽に風お和げ波お静よと雲事お聞ずば、第八外海の小竜めら、四大海水の八大竜王(○○○○)に仰附て、なく成べしとて嗔りける、〈○中略〉文覚が雲事、竜神の心にや協けん、沖吹風も和て、岸打浪も静也、〈○中略〉国澄問雲、抑当時世間に鳴渡雷おこそ竜王と知て侍る(○○○○○○○○○○○○○○○○)に、其外に又大竜王の御座様に仰候つるは、いかなる事にて侍るやらんといへば、文覚答て雲、此等の鳴雷は竜神とは雲ながら、尫弱の奴原也、あれは大竜王の辺にも寄つかず、履お取までもなき小竜めらなり、八大竜王とて、法華経の同聞衆に有八竜王、〈○中略〉此空に鳴行く奴原は、八大竜王の眷属の又従者の又従者の百重ばかりにも及び難き小竜也、去共夏天の暑に雲お起し雨お降して、五穀お養ふ事は、目出(めでたき)事ぞや、〈○中略〉さしも気高き八大竜王は、文覚お守護せんと雲誓あり、況小竜共が不知案内危くも煩おなす時に、隻今名乗たれば、すは海上は静りぬるはと雲、〈○下略〉