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沙石集
五上
学匠之蟻蜹之問答事
海の中に虬といふ物あり、蛇ににて、角なき物といへり、妻懐姙して、猿の生肝お子がひければ、山のほとりに猿ありける所にゆきて、この山に菓おほしやととふ、さるの雲ふ、はなはだえがたしといへば、虬の雲く、わがすむ海中に菓のおほき山あり、おはしませかしといお、猿の雲く、海の中へはいかでかゆかんといふ、虬の雲く、我背にのせてといふ、さらばとて背にのりてえく、海中へはるかにゆけども、山も見えず、いかに山はいづくぞといへば、げには海中にいかでか山有べき、我妻猿の生肝お子がへば、其のためなりといふ、さる色お失ひて、如何にすべきかたなくて申けるは、さらば山にてもの給はで、やすきことなりけるお、我生肝は、ありつる山におけり、急ぎつる程に忘れたりといふ、さては肝の為にこそ具してきつれと思て、さらば返てとりてたべといふ、安き事と雲ければ、返て山へゆきぬ、猿木に上て、海中に山なし、身おはなれてきもなしと雲た、山へふかく入ぬ、虬ぬけ〳〵として帰りぬ、〈○下略〉