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沙石集
七下
継女蛇欲合事
下総国に或者の妻十二三計なる継女お、大なる沼の畔へぐして往て、此沼の主に申、この女お参せて、むこにしまいらせんと、度々雲けり、或時世間すさまじく風吹空曇れる時、又例のやうにいひけり、此女殊におそろしく、身の毛いよだつ、沼の水浪たち風あらくして見へければ、急家へ帰に、物のおふ心ちしければ、いよ主怖なんど雲計なし、さて父にとりつきて、かヽる事なん有つると、日ごろの事まで語る、さるほどに母も内へにげ入ぬ、其後大なる蛇きたりて、頸おあげ舌お動して、此女お見る、父下郎なれども、さか〳〵しき者にて、蛇に向て、此女は我女也、母は継母也、我ゆるしなくては争かとるべき、母がことばによるべからず、妻は夫に従ふことなれば、母おば心にまかす、とるべしといふ時、蛇むすめお打捨て母がかたへはいゆきぬ、その時父この女おかい具してにげぬ、この蛇母にまとひつきて、物くるはしく成て、既に聞へき、文永年中夏の比の事と沙汰しき、〈○中略〉
蛇之人之妻犯事
中比遠江国の或山里に、所の政所なる俗有けり、さか〳〵しき者也けり、他行の隙に妻ひる寝して久く不驚、夫帰て、ねやへ入て見れば、五六尺ばかりなる蛇、まとはりて口さし付て臥たり、杖お用て打はなちて、申けるは、親の敵宿世の敵といひつれば、子細に不及、殺害すべきなれども、今度ばかりは許す、自今以後、かヽるひが事あらば、命おたつべしといひて、杖にてすこし打なやして、山の方へすてつ、其後五六日有て、家内の男女驚さはぐ、何事ぞと問ば、蛇のおびたヾしくあつまり候と雲、主なさわぎそとて、直垂き、ひもさして出居にいたり、一二尺の蛇かしらおならべて、間もなく四方おかこみて庭のきはまで来る、さしまさりくる蛇、つヾきていく千万といふ数お知ず、はてには一丈二三尺ばかりなる蛇左右に五六尺ばかりなる蛇十ばかり具して来る、みな頭おあげ、舌おうごかす、おそろしなんど雲計なし、女共は肝魂もなき髏也、今はかうにこそと思て、あるじ申けるは、各何として、かく聚り給へるぞ、大かた存知しがたく侍り、一日女童部が昼眠したりしお、蛇の犯したる事侍りき、まのあたり見つけて侍しかば、宿世のかたきなる上は、命おたつべかりしお、慈悲お以たすけて、後にかヽる事あらば、命おたつべしとて、杖にてすこし打なやして、捨たる事侍き、此事お各きヽ給て、某が僻事とばし思て、おはしたるか、人畜異なりといへども、物の道理はよもかはり侍らじ、妻おおかされて、恥がましき事にあひ、なさけありて、いのちおたすけながら、猶僻事に成て、よこさまに損ぜられん事こそ、無慚の次第にて侍れ、此事冥衆三宝も知見おたれ、天神地祇、梵王帝釈、四大天王、日月星宿も御照覧有べし、一事も虚誕なしと、事うるはしくかびつくろいて、人に向て申様にいひければ、大蛇より始て、頭お一度にさげて、大蛇のそばに居たる一日の件の蛇とおぼしきお、一かみかみて引返る、これお見て、あらゆる蛇、一口づヽかみて、みそ〳〵とかみなして、山の方へみなかくれて後、すべて別事なかりけり、