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今昔物語
二十八
近衛御門倒人蝦蟇語第卌一
今昔天皇の御代に、近衛の御門に人倒す蝦蟇有けり、何也ける事にか有らむ、近衛の御門の内に大きなる蝦蟇一つ有て生、夕暮に成ぬれば出来て、隻平なる石の様にて有ければ、内へ参り罷出る上下の人、此れお踏て不倒ぬ人無かりけり、人倒れぬれば、即ち這隠れて失にけり、後々には人此く知にけれども、何なることにか有けむ、同じ人此れお踏て返々る倒れける、而る間一人の大学の衆有けり、世の鳴呼の者にて、糸痛う物咲ひして物謗り為る者にてぞ有ける、其れが此の蝦蟇の人倒す事お聞て、一度こそ錯て倒れめ、然だに知り得なむには、押倒す人有と雲ふとも、倒れなむやと雲て、暗く成る程に、大学より出て、内辺の女房の知たりけるに、物雲はむとて行けるに、近衛の御門の内に、蝦蟇平みて居けり、大学の衆いで然りとも、然様には人おこそ謀力るとも、我れおば謀らむやと雲て、平み居る蝦蟇お踊り越る程に、押入たりける冠也ければ、冠落にけるお不知ずに、其の冠、沓に当たりけるお、此奴の、人倒すは、己れは己はと雲て、踏国に巾子の強くて急とも不ざりければ、蟾蜍の盗人の奴は、此く強きぞかしと雲て、無きかお発て、無下に踏入る、時に内より火お燃して、前に立ら、上達部の出給ひければ、大学の衆、橋の許に突居ぬ、前駈共火お打振つヽ見るに、に表の衣著たる者の、髻お放て居たれば、此は何ぞ何ぞと雲て見騒ぐに、大学の衆音お挙て、自然ら音にも聞食すらむ、記伝学生藤原の某、兼ては近衛の御門に人倒す蝦蟇の追捕使と名乗るに、此雲ふは何ぞなど雲て、咲ひ喤て、此引出よ見むと雲て、雑色共寄て引く程に、表も引破て損じければ、大学の衆詫て、頭お掻捜るに冠も無れば、此は雑色共の取つる也けりと思て、其の冠おば何しに取づるぞ、其れ得させよ、得させよと雲て、走て追ける程に、近衛の大路に低に倒れにけり、〈○下略〉古へは此く世の鳴呼の者の有ける也、〈○下略〉