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今物語
ある殿上人、ふるき宮ばらへ、夜ふくる程に参りて、北のたいのめむだうにたゝずみけるに、局におるゝ人の気色あまたしければ、ひきかくれてのぞきけるに、御局のやり水に、蛍のおほくすだきけるお見て、さきにたちたる女房の、蛍火みだれとびてと、うちながめたるに、つぎなる人、夕殿に蛍とんでとくちずさむ、しりにたちたる人、かくれぬものは夏むしの、とはなやかにひとりごちたり、とり〴〵にやさしくもおもしろくて、此男何となくふしなからんもほいなくて、ねずなきおしいでたりける、さきなる女房ものおそろしや、蛍にも声のありけるよとて、つやつやさわぎたるけしきなく、うちしづまりたりける、あまりに色ふかくかなしくおぼえけるに、今ひとり、なく虫よりも、とこそとりなしたりけり、是もおもひ入たるほどおくゆかしくて、すべてとり〴〵にやさしかりける、
音もせでみさほ〈○みさほ、後拾遺和歌集三作おもひ、〉にもゆる蛍こそ鳴虫よりも哀成けれ
蛍火乱飛秋已近、辰星早没夜初長、
夕殿蛍飛思悄然
つゝめどもかくれぬ物は夏むしの身よりあまれる思ひ成けり