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今昔物語
二十九
於鈴鹿山蜂螫殺盗人語第卅六
今昔、京に水銀商する者有けり、年来役と商ければ、大きに富て、財多くして家豊か也けり、伊勢の国に年来通ひ行けるに、馬百余匹に、諸の絹糸綿米などお負せて、常に下り上り行けるに、隻小き小童部お以て、馬お追せてなむ有ける、〈○中略〉而る間、何也ける盗人にか有けむ、八十余人、心お同くして、鈴香の山に、て、国々の行来の人の物お奪ひ、公け私の財お取て、皆其人お殺して、年月お送ける、〈○中略〉此の水銀商、伊勢の国より、馬百余匹に諸の財お負せて、前々の様に小童部お以て追せて、女共などお具して、食物などせさせて上ける程に、此の八十余人の盗人、極き白者かな、此の物共、皆奪取らむと思て、彼の山の中にして、前後に有て、中に立挟めて恐しければ、小童部は皆逃て去にけり、物負せたる馬共、皆追取つ、女共おば皆著たる衣共お剥取て、追棄てけり、水銀商は〈○中略〉辛くして、逃て高き岳に打上にけり、〈○中略〉虚空お打見上つヽ、昔お高くして、何ら何ら遅し遅しと雲立てりけるに、半時計有て、大きさ三寸計なる蜂の怖し気なる、空より出来て、ふんと雲て、傍なる高き木の枝に居ぬ、水銀商此れお見て、弥よ念じ入て、遅し遅しと雲ふ程に、虚空に赤き雲二丈計にて、長さ遥にて俄に見ゆ、道行く人も、何なる雲にか有らむと見けるに、此の盗人共は、取たる物共拈ける程に、此の雲漸く下て、其盗人の有る谷に入ぬ、此の木に居たりつる蜂も立て、其方様に行ぬ、早う此の雲と見つるは、多の蜂の群て来るが、見ゆる也けり、然て若干の蜂、盗人毎に皆付て、皆螫殺してけり、一人に一二百の蜂の付たらむだに、何ならむ者かは堪むとする、其れに一人に二三石の蜂の付たらむには、少々おこそ打殺しけれども、皆被螫殺にけり、其の後、蜂皆飛去にければ、雲も晴ぬと見え、けり、然て水銀商は、其の谷に行て、盗人そ年来取貯たる物共多く、弓胡錄馬鞍著物などに至まで、皆取て京に返にけり、然れば弥よ富増てなむ有ける、此の水銀商は家に酒お造り置て、他のことにも不仕ずして、役と蜂に呑せてなむ、此く祭ける、然れば彼れが物おば、盗人も不取ざりけるお、案内も不知ざりける盗人の、取て此く被螫殺る也けり、然れば蜂そら物の恩は知けり、心有らむ人は、人の恩お蒙りなば、必ず可酬き也、亦大きならむ蜂の見えむに、専に不可打殺ず、此く諸の蜂お具し将来て、必ず怨お報ずる也、