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太平記
十五
三井寺合戦並当寺撞鐘事附俵藤太事
此鐘と申は、昔竜宮城より伝りたる鐘也、其故は承平の比、俵藤太秀郷と雲者有けり、或時此秀郷隻一人、勢多の橋お渡けるに、長二十丈許なる大蛇、橋の上に横て伏たり、両の眼は耀て、天ににの日お卦たるが如、双べる角尖にして、冬枯の森の稍に不異、鉄の牙上下に生ちがふて、紅の舌炎お吐かと怪まる、若し尋常の人是お見ば、目もくれ魂消て、則地にも倒つべし、されども秀郷天下第一の大剛の者也ければ、更に一念も不動ぜして、彼大蛇の背の上お荒かに蹈て、閑に上おぞ越たりける、然れ共大蛇も敢て不驚、秀郷も後ろお不顧して、遥に行隔たりける処に、怪げなる小男一人忽然として、秀郷が前に来て雲けるは、我此橋の下に住事已に二千余年也、貴賤往来ん人お量り見るに、今御辺程に剛なる人未見、我に年来地お争ふ敵有て、動ば彼が為に被悩、可然は御辺我が敵お討てたび候へと、懇にこそ語ひけれ、秀郷一義も不謂子細有まじと領状して、則此男お前に立てヽ、又勢多の方へぶ帰ける、二人共に湖水の波お分て、水中に入事五十余町有て、一の楼門あり、開て内へ入るに瑠璃の沙厚く、玉の甃暖にして、落花自繽紛たり、朱楼紫殿玉欄干、金お鐺にし銀お柱とせり、其壮観奇麗未曾て目にも不見、耳にも聞ざりし所也、此怪しげなりつる男、先内へ入て、須臾の間に衣冠お正しくして、秀郷お客位に請ず、左右侍衛官前後花の粧、善尽し美尽せり、酒宴数刻に及て、夜既に深ければ、敵の可寄程に成ぬと、周章騒ぐ、秀郷は一生涯が間、身お放たで持たりける、五人張にせき弦懸て嚙ひ湿し、三年竹の節近なるお、十五束三伏に拵へて、鏃の中子お筈本迄、打どほしにしたる矢、隻三筋お手挟みて、今や〳〵とぞ待たりける、夜半過る程に、雨風一通り過て、電火の激する事隙なし、暫有て比良の高峯の方より、焼松二三千がほど二行に燃て、中に島の如なる物、此竜宮城お指てぞ近付ける、事の体お能々見に、二行にとほせる焼松は、皆己が左右の手にともしたりと見えたり、あはれ是は百足蚿の化たるよと心得て、矢頃近く成ければ、件の五人張に十五束三伏、忘るヽ計引しぼりて、眉間の真中おぞ射たはける、其手答鉄お射る様に聞へて、筈お返してぞ不立ける、秀郷一の矢お射損て、不安思ひければ、二の矢お番て、一分も不違態と前の矢所おぞ射たりける、此矢も又前の如くに躍り返て、是も身に不立けり、秀郷二つの矢おば皆射損じつ、憑所は矢一筋也、如何せんと思ひけるが、屹と案じ出したる事有て、此度射んとしける矢さきに、唾お吐懸て、又同矢所おぞ射たりける、此矢に毒お塗たる故にや依けん、又同矢所お三度迄射たる故にや依けん、此矢眉間のたヾ中お徹りて、喉の下迄羽ぶくら責てぞ立たりける、二三千見へつる焼松も光忽に消て、島の如に有つる物、倒るヽ音大地お響かせり、立寄て是お見るに果して百足の蚿也、竜神は是お悦て、秀郷お様々にもてなしけるに、太刀一、振、巻絹一、鎧一領、頸結たる俵一、赤銅の撞鐘一つお与て、御辺の門葉に、必将軍になる人多かるべしとぞ示しける、秀郷都に帰て後此絹お切てつかふに更に尽事なし、俵は中なる納物お、取れども〳〵尽ざりける間、財宝倉に満て、衣裳身に余れり、故に其名お俵藤太とは雲ける也、是は産業の財らなればとて、是お倉廩に収む、鐘は梵砌の事なればとて、三井寺へ是おたてまつる、
○按ずるに、今昔物語にも蜈蚣と蛇と争闘の事あり、蛇条お参看すべし、