[p.1228]
燕石雑志

猴蟹合戦
蟹と蚯蚓と戦ふ事あり、頭陀物語に、団友斎凉兎、筑紫のかたに行脚せし頃、一日遊山して日暮て宿にかへらんとするに、後方に物あり、怪しと思ひて見かへれば、地おはなるゝこと三尺ばかり、長さは丈あまりと見ゆるものゝ、赤き色、炎の如くなるが、風おおこし、さかさまに立て動くとも飛ともなく、宙にはなれて近づき来る程に、凉兎魂消て、肌膚粟のごとく、襟寒うなりて、呼んとするに声発ず、わが足に手おかけて、一歩づゝ前にすゝまんとするに、忽地後方に音して、水さはさはと鳴り、木草颯と戦ぐに、物の響ひし〳〵と聞ゆふりかへり見るに、その物お見ず、〈○中略〉人の家に走り入り、〈○中略〉しか〴〵の変化にあへるよしお告、主人これお聞てうちほう笑み、そは世にいふばけ物にあらず、この山の蚯蚓也蚯蚓山の土お食ひて、年お経れば、土気お起し空に飛行す、必けふの如く雨霽し夕つかたは、いくつともなの出あるき、沢蟹と戦ひて、これお打つぶして脳お吸へり、このこと西国に多かり、この蚯蚓は恐るべかちず、沢蟹は恐るべし、〈○中略〉蚯蚓の事、その虚実はいまだ知らず、蟹には殊に互大なるものありと、ぞ、〈○下略〉