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東雅
十九/鱗介
鮏さけ〈○中略〉 さけの義不詳、或は東北夷地の方言に出しも知るべからず、〈世にはさけといふもの亦不詳といふなり、鮏は説文に魚臭也と見え、徐鉉は今俗作鮏といひ、鮭字の如き、も二音めりて、音骸なるは魚菜也、音圭なるは河魨別名と見えたりしが故なり、されど崔氏の説の如き、疑ふべくもあらぬ此物なり、むかし朝鮮の信使来りし時に、或人この物の事奄問ひしに、鰱魚おもて答へしといふなり、彼国の東医宝鑑には、鰱魚味亦甘美、卵如真珠而微紅色、味猶美、生於東北江海中と見えたり、其説の如きは、彼国の方言に出で、毛詩の鱮一名鰱といふ者にはあらねど、卵如真珠而微紅色といふ事は、他魚のなき所にして、崔氏の其子如苺といふ説に相合へり、また朝鮮の方俗、鰱字な借りて此物となせしも、其謂なきにもあらずと見えたり、此魚秋に至りて、海より水に遡り来るには、百千隊お連らねて上る也、されば魚に従ひ連に従ふ字お取用ひしにぞあるべき、前にも注せし事の如く、正徳の初、朝鮮の聘使来りて、京に至りし時に、若水稲子その学士等にあひて、鮏魚の事お問ひしに、学士李重叔といふもの、まづ鮏魚お見て答ふるに、其国の松魚なりと〉〈雲ひけり、次に洪命九といふ者は不知と雲ふおもてす、又次に厳子鼎といふものも、松魚也といひけり、最後に南仲容といひしが答へしには、此魚是我国松魚也、与鰱性同而体小、按我国東海所産、七八月間、自海作隊、遊上川渓、或磨身於石、鱗脱不止、至於自弊といひけり、其与鰱性同而体小といふお見れば、学士等鰱魚お錯り認て、既に松魚となしぬ、まのあたり其誤お正すべきにもあらねば、これも松魚也とはいひしかど、我国東海所産といひしより以下は、即今見る所の鰱魚の事お以て答へしなり、洪命九が不知といひしは、是も学土が雲ひし所の非なるお以て、其言お避けしなり、又南仲容が松魚也といひ、また与鰱性同而体小といひしが如きは、此にいふ鱒の如きは、其大なる者といへど、鮏よりは小さきなる者なり、京には鮏魚のまれなる所なれば、或は其小さきものお以て、彼等に見せたらむも知らず、もしさらずば其小なるものといひ、彼にいふ所の松魚、此にいふ所の鱒魚なり、其大なる者とせしは、此にいふ所の鮏魚、彼に雲ふ所の鰱魚也、仲容か答へし所といへども、鰱魚松魚の事共、よく知りぬるものとは見えず、其他は猶言ふにも及ばず、〉