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甲子夜話
十八
白魚は種おまけば生ずるものなり、嘗て見しが其書お忘れたり、黄門光国卿常州の川に、隅田川の白魚お乾して取寄せ、沙中に埋置れければ、翌年白魚生じて其種絶ることなく、隅田産の大さに異ることなしとありき、又予〈○松浦清〉が領国の産は、江都の如きはなく、たま〳〵白魚と称するものの、細小にして淡黒お帯ぶ、大抵西辺この如し、或年の旅次周防小郡駅に宿とき、晩飯に白魚お供せり、隅田の産に異ならず、予驚き問ふ、これ何れより得たる、厨人答ふ、駅の前小郡川の所産なり、因て其由お聞くに、里人雲ふ、領主萩老侯、先年此辺の三田尻に隠居お占められしとき、此魚の江都に産せるお好まれ、隅田のものお乾かして土にいれ、此地に運ばれ、かの川に投じ置れしが、明年より生育して、至今て如此と、いかにも隅田の産に少しも殊ならざりし、又頃日字書お見しに、博物志お引て、呉王江行食魚膾、棄残余於水、化為魚名膾残、即今銀魚、これ吾邦の白魚なるべし、精細の状およく見たてし名なり、隅田川の産いかにも銀魚と雲べし、天爆子聞て曰、江都の白魚は、享保中徳廟〈○徳川吉宗〉の勢州より取寄せ給ひ、品川に蒔かれしより始まれり、是も卵多き白魚お乾かため来れる種なり、それ迄は江都に此魚無りしとなり、紀伊殿の領分勢州にあり、其処に産するお知し召て、御承統の後かくし給ひしなり、以前より桑名侯白魚の献上あれば、勢州の名産たること著けれと、又曰、此説は光国卿よりは年代後れたり、熟がその始なるにや、