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東雅
十九/鱗介
鯛たせ 旧事紀に天孫の尊の、海神の宮に赴き給ひし時の事共、しるされし所に見えし魚の名、赤女即鯛也としるされだり、古事記にはまた赤海鯽魚としるし、日本紀にしるされし所も、旧事紀の如くにして、一説に赤鯛としるされしおば、読てあかだひと雲ひしなりさらば此物の名は太古の時には、あかめといひしお、後にはたひと雲ひし也、あかめといひしは、あかは即赤也、めとは太古の俗禽魚類お呼ぶに、めと雲ふ詞おもてせし常の事也、また後にたひとよびし事は、三韓の方言によりしと見えたり、即今も朝鮮の俗、此魚お呼びてとみと雲ひ、道味魚の字お用ゆ、其とみといふは、彼国のいにしへたひと雲ひし語の転ぜしなり、〈(中略)鯛の字おもて魚名とせしは、禹錫食経の外には、広益玉篇に鯛魚名と注し、鄭望膳夫錄に、鱠莫先於鯽魚、鯿魴鯛鱸次之と見えしのみなり、其余訓詁之書の如きは、鯛字或は収め或は収めず、禹錫食経既に失ひたれば、其全書お、見るに及ばず、倭名抄に引用ひし所おも、世の人疑ふ事に成たり、我幼き頃ほひに、或人閩書の南産志に、嶺表異錄、興化志、宋志、海錯疏等お引てしるせし、棘鬣、吉鬣、髻鬣、奇鬣、過臘などいふ名ある者おもて、此にたひといふもの即是也といひし程に、其後にまた正字通お考るに及びて、其注せし所の如きは、鯛旧注引説文、骨魚脆也、按長揃他魚不然、疑為鱏魚、宜訓鱏魚、鼻端脆骨と見えしかば、遂に鯛字おもて、魚名とする事、所出未詳などいふになりたり、説文に見えし所の如きも、其文全しとも見えず、或は残欠の字ありしも知るべからす、我国の如きは、太古の時にありて、既に此物の名聞えたりけり、漢にしても亦然ぞあるべき、さらば宋時南方の俗、名づけ雲ひしな待て、始て其名ありぬべしとも思はれず、古にいふ所の鯛魚、宋時の俗呼びて棘鬣といひ、明の世に至て、吉鬣髻鬣奇鬣、過臘等の名ありしは、又各其方言に依りしとこそ見えたれ、閩書等の者に見えし所も、棘鬣似鯽而大、其鬣如棘、紅紫色と見えたり、禹錫食経にも、似鯽而紅鰭者也といひき、これかれしるせし所異なりとも見えず、〉