[p.1452]
後水尾院当時年中行事

一まいら、ざるものは、王余魚〈是は俗にかれひとかいふ御まな也、いかなるゆえにまいらぬか、其子細おしらず、若名の文字王余魚と書といふ事お雲事か、本草綱目には膾残魚王余魚とも雲とみえたり、呉王闔閭の魚膾お食して、のこりお水に投ぜられしに、化して魚となりたるよし也、さらば王余の心は、たがひもやあらん、其上膾残魚は注体かれひとはみえず、しろうおとかいふものゝ大概協ふやうなれど、長四五寸などやうにみえたり、これしまた相違せり、いかない魚にか、又かれひ目の一所によりて付て、そのてい異やうなれば、まいらずなどいふ女房などあれど、これもおの〳〵のすがた也、其ものゝ申に類せず、ことやうにもあらばこそ、〉