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以曾都堂比
菖蒲田はまおへて松が浜にいたる、援は浜々の中に分てめでたき所なりき、松が浦しまなどいふは、こゝの分名なりけり、〈○中略〉此海にはわにざめなどいふ荒魚のすめば、こゝなる海士は恐て底迄はいらで、さゝやかなるおのみとりて有しお、此あまはさることもしらざりし故、水底に入て取つるお、あやぶきことゝこゝなる人は思居しに、はたして大わにみつけて追し故、命おはかと真手かたいとまなく、浪かき分つゝ逃つれども、いとはやくおひ来て、こゝなる岸にのぼりて、松がねにとりすがりてあがらんとせし時、わに飛付て引おくれたるかたの足お食たりしお、海士はあがらん、わには引いれんとすまふほどに、あしおつけねより引ぬかれて、くるひ死にしにけり、わにはあら波巻返して逃去けり、子はまだ廿にたらぬほどにて有しが、岸にたちてみつれどもせんすべなければ、唯泣になきけり、其からおおさめてのち、父の仇おむくひんとて、日毎におのまさかりおたづさへて、父がすがりし松が根にたちて、まじろぎもせず海おにらみて、わにや出るとうかゞひいけるお、人々孝子也とて哀がりけり、さて年半ばかりも過たるころ、釣のわざおようせし海士の修行者に成て、国めぐりするが、こゝにやどりけり、かゝることの有といふことは人毎に語りつれば、そのすぎやうざも聞しりていと哀がりておしへけらく、わにおとらんとおもふに、おのまさかりはふようならめ、よきはがねにて両はにとげたる尺余の大釣針おうたすべし、夫に五尺のかなくさりおつけて、肉おえにさして沖に出て釣すべし、わに必より来ぬべしとつたへけり、孝子いたくよろこびて、教しごとくにまうけなして釣せしに、くじらの子おえしこと二度有、幾としゆきかへりて、父がくはれし時おかぞふれば、十余三とせに成にけり、其日のめぐりこしゝ時、法のわざねもごろにして、来つどひたる浦人に向ひ、けふぞ必わにおえて、父に手向んとちかひて、力あはせ給はれとかたらひつゝ、としごろ飼置し白毛なる犬の有しおよびて、父の仇おうたんといましが命おこふなり、われとひとつ心に成て、主の仇なるわにおとれといひ聞せつゝ、涙お払て首打落し、しゝむらお切さきて、釣針につきつらぬきて、沖にいでゝ針おろせしに、孝子の一念やとゞきつらん、あやまたず大わにはりにかゝりしかば、思ひしことよと悦つゝ、浦人にもかくと告て、まうけおきたるからさんといふものにかけて、父がくはれし切岸に引よせて、つひにわにお切はふりけり、そのわにの丈は七間半有しとなん、かゝることの聞えかくれなかりし故、国主にも聞し召つけられて、松が浜の孝子とほめさせ給へる御言書お給はりて、わにおつりし針はながく其家のたからにせよと仰くだりつれば、今も持たり、わにのかしらのほねは、海士人お埋し寺の内におきたり、獅山公の御代のこと成きこのふたつのものは、いまもまさしう有て、道ゆく人はよりてみつ、かゝることも有けりと思へばかしこし、
人とりしわにゝ増りてたくましや仇おむくひし孝の一(お)念は