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慶長見聞集

関東海にて鯨つく事
聞しは今唐国に鯨鯢と雲魚は、長さ数千里あり、波おたゝひて雷おなし、沫おはきて雨霧おなす、舟おものむと也、四足の魚と古記に見えたり、扠又日本に鯨と雲魚有、けい〴〵のたぐひと知られたり、長さ三十ひろ五十ひろ有、日本に是に過たる生類なし、愚老〈○三浦浄心〉若き比、関東海にて鯨取事なし、死たる鯨東海へ流れよるお、人集て肉お切取、皮おば煎じて油おとる事、度々におよぶ、然ば昔貞応二年五月、鎌倉近辺の浦々へ、名おも知ぬ大魚死て浪に浮び、三浦崎六浦の海辺へ流れよる、鎌倉中にじうまんす、人こぞつて是お買取る、家々に是おせんじて油お取、異香りよこうに満り士女是お早魃の兆ざしと雲、此魚の名知らず先規になし、是たゞ事ならずと文に記せり、貞応の比まで関東海に鯨有事お人知らざる、也、今は鯨江戸浦まで来て、うしほお空へ吹上るお見れば、海上にやく塩屋の烟かとうたがはる、是は息おする魚にて、海底に計りは居られぬと知られたり、古歌に、
うしほ吹鯨の息と見ゆる哉沖に一村夕立の雲、是はつのゝ浦によめり、江戸浦にては沖に幾村立雲とこそ詠侍らめ、鯨おもりにてつくに鯨とるといふ、鰹は釣にてつるなるお、鰹とるといふ、是は海人共のそゞうごとゝ思ひしに、八雲抄に鯨とる鰹とるとよめり、くじら大魚なれ共、伊勢尾張両国にてつく事有、是より東の国の海士はつく事お知らず、然に文禄の比ほひ、間瀬助兵衛と雲て、尾州にて鯨つきの名人相摸三浦へ来りたりしが、東海に鯨多有お見て、願ふに幸哉と、もり絶お用意し鯨おつくお見しに、鯨は子お深く思ふ魚也、故に親おばつかずして子おつきとめいかしおく、二つの親子おゝのが腹の下にかくし、おのが身お水の上にうかべ、劔にて肉お切さくおわきまへず、親子共に殺さるゝ、哀なりける事共也、