[p.1516][p.1517]
慶長見聞集

鰒の肉に毒ある事
見しは今知人四五人同道し、愚老所へ尋来り給ひぬ、われ出逢、たまさかの御出、何おかもてなし申さん、あたらしき肴はなきかと、ひとりごといへば、客の中に一人申されけるは、亭主は我等お馳走ぶり見えたり、余の物は無用、皆々鰒汁好物なれば、肴町に鰒有べしたヾ鰒汁よといへる処に、又一人鰒汁のもてなしならば、鶴白鳥にもまさる成べし、たゞ鰒のあつ物よと口々にいへり、愚老聞て、鰒汁安き御所望也、然共援に物語の候、我知人に中嶺源右衛門と雲人、常に鰒汁お好みしが、去年の夏鰒の肝にあたつて血おはき忽死たり、愚老それお見しより、鰒はおそろしく候、又当年伝馬町にて彦三と申者、鰒お好みしが、有時干鰒おくひ死たり、扠又此程こあみ町にて鰒おくひ、親子けんぞく七人家一つにて死たり、是お見しより、われおくびやう心にや、鰒の沙汰お聞ば身の毛よだつ也、此度鰒汁おばゆるし給へと申ければ、其中に竹田庄右衛門と雲年比五十計の老士聞て、亭主の申処理りしごくせり、唯今思はずしらず鰒のさた有しに、若き衆たはぶれ事に所望なり、我も此已前人の相伴に鰒汁おくひつるが、くふうちにも少心にかゝり、食して後も何とやらん忘がたかりし、鰒お食しては酒おのみたるがよきと聞つれば、われ下戸なれ共酒お多くのみたりしに、却て酒に酔て胸とゞろく、是は鰒故か酒故かと、しばしが程心元なく思ひつれば酒さめたり、鰒食しては誰がおもはくも同じかるべし、然ときんば客に鰒おもてなす亭主は無分別者成べし、鰒無用と申されければ、若き衆是非のさたなし、援に或老人此物語お聞ていひけるは、医書に鰒は大温肝に毒ありとしるしたり、然るに去年通町にて人々寄合、鰒料理せしが、此鰒人だめならずとて、手つから生鰒おあらひ肝お取て捨、血あひ骨迄も切捨て、みところ計およくこしらへ、にごり酒に一時ひたし、料理して八人寄合しよくせしに、其内五人は則時に死三人は十日ほど病て後本腹す、此人々町にても人にしられたる人也、鰻おくひあまた死たると沙汰あらば、かばねの上のちじよく成べし、時のくひちがひとてさだもせず、