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蒹葭堂雑錄

筑前国遠賀郡の浦人どもの中に、伊万里の陶器お船に積て、諸国お廻り渡世となす者あり、〈○註略〉天明二年寅の五月、奥州津軽にいたり、舟宿に滞留し、乗組の者銘々日毎に荷おかつぎ、市中在々お徘徊して売めぐりけるに、其内に有し一人、〈○註略〉或日山路に踏まよひ、そこはかとなく吟ひけるに、〈○中略〉女房の洗濯し居たるに逢ひ、〈○中略〉あはれ簀子のはしに成とも、こよひ一夜お明させ給はらば、一命お助け給ふにひとしかるべし、偏に頼み入候と手お合せて頼みければ、女房のいはく、商人には何国の人にて侍らふやと、商人答へて、われは九州筑前のものなりと、此女いとおどろきたるさまにて、あらなつかしの筑紫人や、〈○中略〉抑わらわは山鹿の傍、庄の浦〈○註略〉といへる処の賎しき海士の子にて候ひしが、〈○中略〉男子女童二人持はべりしが、最孝心にして枕に附そひ歎き侍りしに、或日磯に出て、一のほら貝お拾ひ帰り、これおよく煮調へ、すゝめ侍りしが、其味ことの外よろしく覚へしより、少しづゝ食事にもとづきけるゆへ、朝夕二三日の間、其貝おさいとなして、終にこと〴〵く食せしが、頓て病本復せしより、身体もとより倍て健になり、其後は更に病といふ事お知ず、幾春秋お重て、老衰の貌もなく、所謂不老不死の薬にてもや侍りけむ、今思ひ巡らすに、はや六百余年と申昔語にて、我ながらいといぶかしき身上に侍なり、〈○中略〉さる程にいつしか住馴し故郷も住うく覚へけれぱ、〈○中略〉子孫のもの、所の人々に暇お乞て、〈○中略〉都の方より、吾妻の国々お経歷、さいつ頃より、此陸奥の津軽の郡にまいりしが、又もや人々のわりなく申給へるに固辞がたく、此家のあるじに嫁づきはべり、我身〈○中略〉故郷お出し頃、かの勃囉(ほらがい)の殻お、我命の親なりと思へば、所の神職お頼みて、小き祠の有しに、祝おさめて我姿とも形見とも見よかしと申残し候ひしが、今は限りもなき年月に候へば、いかゞ成行はべりしやらん、爾有(しかはあれ)ど、其小祠のわたりに、舟留の松とて、大なる木の一もと有しなり、松は千歳のものなれば、今に朽木ともならで、有なんもほかり難し、若彼処にいたり給ひなば、是おしるしに万が一、わが子孫の末のものなど候はゞ、尋出して此物語おも聞せて給はり候へとて、夜すがら語あかしけるよし、此商人ことし〈○天明二年〉の神無月、庄の浦に尋来りて、伝治郎といへる者の家に、かのほら貝の伝はれるお見つ、又小祠の傍に彼松の有お見て、いとゞ奇異の思ひおなし、如此のよしお伝治郎へ物語けるとなり、〈○中略〉
岡部久伯、山鹿に滞留せしうち、此物語お聞しより、庄の浦へまかりて、彼ほら貝お見しに、いかにも古物と思しくて、口のあたり所々かけ損じたりと語れり、
遠賀郡乙丸村庄屋儀平より御役所へ申上の口上之写、
当村郷庄の浦へ、古来より持伝候ほら貝、此節御上御用に付、御役所〈江〉差出候様被仰付、則ほら貝主伝治江為持差上申候、右ほら貝持伝候次第申上候様被仰付候得共、何分村方に慥成書付等無御座候、併往古右ほら貝之肉喰候女、今以遠国に致長寿居申由、六十年已前に風説有之由、老人之咄に承及候処、又々三十年已前、同様之風説御座候得共、村方に趣意存候儀少〈茂〉無御座候、猶村中流行病、又は牛馬相煩候節など、次第者存知不申候得共、右ほら貝持廻来申候、其後天明〈壬〉寅年、同様之風説専御座候而、世上より取々咄候に付、咄之趣写留、所持仕候者隣村に御座候、是以御役所〈江〉難差上奉存候得共、為御内見ほら貝に相添差上候、何れ共御奉行様御前宜被仰上可被為下候、偏に奉願上候、以上、
完政九年十二月 〈乙丸村庄屋〉儀平 坂田新五郎様御役所〈○下略〉